記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-


 ◇

 夜の街をふらふらと歩く。すれ違う人の顔がぼやけて見える。街の喧騒がどこか遠い世界の出来事のようだ。自分がひどく汚れているように思えて家に帰る気になれない。

 心は空っぽだった。信号を渡り、ひと気の少ない路地に入ったのは覚えている。ここは一体どこだろう。

 花音はどこへ向かうでもなく、ただ歩き続けた。

 ふと視線の先に小さな灯りが見えた。それは街のネオンとはまるで違う、やわらかな光だった。

 店先に置かれていた小さな木の看板。そこには『記憶と夢の珈琲店 CAFÉ LUMINOUS』と書かれている。

「……記憶と……夢……?」

 思わず声が漏れた。その文字をぼんやりと眺めてから、花音はゆっくりと扉に手をかける。

 ──からん。

 扉につけられた鈴が、夜のしじまを切り裂くように響いた。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの奥から落ち着いた女性の声がした。

 店内は外の世界とはまるで別の時間が流れているようだった。木の温もりに包まれた空間。壁にはいくつかの風景画が飾られていて、しっとりと音楽が流れている。

 花音は戸口で立ち尽くしていた。暖かい空気が身体の奥にしみ込んでくるようだ。

「おひとりですか?」

 カウンターの女性──黒髪を後ろでまとめた整った顔立ちのその人は、やさしく微笑んでいた。

「……はい」

 ようやく出た声は、かすれていた。

「こちらへどうぞ」

 促されるままカウンター席の端に腰を下ろす。テーブルには小さなランプが灯り、その光に照らされた自分の手が、少し震えているのがわかった。

 ソラは水が注がれたグラスを花音の前にそっと置いた。

「ご注文は、ゆっくりで大丈夫ですよ」

 その一言がひどく心に沁みた。誰にも責められず、詮索もされない場所。一人だけど独りじゃない。そう感じられる空間がこの街にまだあったことに、花音は少しだけ救われる思いがした。

 カウンターの上には磨かれたコーヒーミルと温かみのあるカップが並んでいる。けれど視線は定まらず、徐々に目の前の景色が滲み始めていた。

「……あの」

 なにか言おうとして喉が詰まる。注文すら口にできない。

 ソラはそんな花音の様子に気づくと、手元の動きをそっと止め、穏やかな眼差しを向ける。

「お疲れなのですね」

 傷だらけの心にそっと寄り添ってくれるような、やさしい声だった。

 そのとき、扉の鈴がもう一度鳴った。

「あー寒かったぁ! お邪魔しまーす」

 明るく弾むような声が店内に響く。入ってきたのは少し派手なファッションの女性。ふわふわしたスカジャンにデニム、肩からかけたバッグには、キーホルダーやぬいぐるみがいくつも揺れている。

「こんばんは、アケミさん」

 ソラが明るく声をかけると、アケミは軽く片手を挙げた。

「今日なんか冷えるね。あたし寒いのって苦手なんだよね。寒いと心までちぢこまる感じしない?」

「店内を少し暖かめにしておきましたよ」

「さっすがソラちゃん。……あれ? お客さん? こんな時間に珍しいね」

 アケミと呼ばれたその女性はカウンター席に目を向け、花音の姿を見つけた。そして──。

「大丈夫? ……あんた、泣いたあとの顔してるよ」

 唐突な言葉に花音は目を見開く。

「ごめんごめん、嫌な意味じゃなくてさ。なんとなく……わかるんだよね、そういうの。わたし、人の顔色ばっか見て生きてきたから」

 アケミはためらいなく花音の隣に座り、ソラに向かって「いつもの、お願い」と笑った。