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 夜の街をふらふらと歩く。 心は空っぽだった。すれ違う人の顔がぼやけて見える。街の喧騒が、どこか遠い世界の出来事のようだった。自分がひどく汚れているように思えて、家に帰りたくなかった。

 信号を渡り、ひと気の少ない路地に入る。どこへ向かうともなく、ただ歩いていた。

 ふと視線の先に小さな灯りが見えた。それは街のネオンとはまるで違う、静かで柔らかな光だった。

 右手に見えたのは、小さな木の看板。
『記憶と夢の珈琲店 〈CAFE LUMINOUS〉』

「……記憶と……夢……」

 思わず声が漏れた。その文字をぼんやりと眺めてから、花音はゆっくりと扉に手をかけた。

 ──からん。

 扉につけられた鈴が、夜の静けさを切り裂くように鳴った。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの奥から落ち着いた女性の声がした。

 店内は、外の世界とはまるで別の時間が流れているようだった。木の温もりに包まれた空間。壁には静かな絵画がいくつか飾られ、しっとりと音楽が流れている。

 花音は戸口で立ち尽くしていた。暖かい空気が身体の奥にしみ込んでくるようだった。

「おひとりですか?」

 カウンターの女性──黒髪を後ろでまとめた整った顔立ちのその人は、やさしく微笑んでいた。

「……はい」

 ようやく出た声は、かすれていた。

「こちらへどうぞ」

 促されるままカウンター席の端に腰を下ろす。テーブルには小さなランプが灯り、その光に照らされた自分の手が、少し震えているのがわかった。

 ソラはすぐには注文を聞かず、そっとグラスに水を注いで置いた。

「ご注文は、ゆっくりで大丈夫ですよ」

 その一言が、ひどく沁みた。誰にも責められず、詮索されない場所。そう思える場所がこの街にまだあったことに、花音は少しだけ救われる思いがした。

 カウンターの上には、磨かれたコーヒーミルと温かみのあるカップが並んでいる。けれど花音の視線は定まらず、目の前の景色がにじんで見えた。

「……あの」

 何か言おうとして、喉が詰まる。注文すら口にできない。

 ソラはそんな花音の様子に気づくと、手元の動きをそっと止め、やさしい眼差しを向ける。

「お疲れなのですね」

 問いかけではなく、そっと寄り添うような言葉だった。

 そのとき、扉の鈴がもう一度鳴った。

「おっ、やってるやってる。さっむぅ……」

 明るく弾むような声が店内に響く。入ってきたのは、少し派手なファッションの女性だった。ふわふわしたスカジャンにデニム、肩にかけたバッグにはキーホルダーがいくつも揺れている。

「こんばんは、アケミさん」

 ソラが穏やかに声をかけると、アケミは軽く片手を挙げた。

「今日なんか冷えるね。あたし寒いのって苦手なんだよね。寒いと心までちぢこまる感じしない?」

「店内を少し暖かめにしておきましたよ」

「さっすがソラちゃん。……あれ? お客さん? こんな時間に珍しいね」

 アケミと呼ばれたその女性は、ようやくカウンター席に目を向け、花音の姿を見つけた。そして──。

「大丈夫? ……あんた、泣いたあとの顔してるよ」

 唐突な言葉に、花音は目を見開く。

「ごめんごめん、変な意味じゃなくてさ。なんとなく……わかるんだよね、そういうの。わたし、人の顔色ばっか見て生きてきたから」

 アケミはためらいなく花音の隣に座り、ソラに向かって「いつもの、お願い」と笑った。