透月はわずかに唇をゆがめた。
 嘘みたいな話だ。けれどこの店の空気は、そんな言葉さえも拒まないようだった。

「……でも、本当にそんなことができるんですか? “心が求めるもの”なんて、今の世の中じゃ誰もが分からないまま生きているのに」

「だからこそ、言葉ではなく、感じてみてください。私はあなたの“記憶の揺らぎ”から一杯を選びます」

「……記憶の、揺らぎ?」

「はい。忘れてしまった夢や、置き去りにされた感情――その微かな波紋を、私は拾い上げるのです」

 ……もし、本当にそんなものがあるのだとしたら。
 透月は、遠い昔に置き忘れたような感情の名残を胸の奥に感じた。

「あなたは、なにか大切なものを失くされたのではないですか?」

「なぜ……そうだと思うんです? 会ったこともないのに」

 透月の言葉に、ソラがふっと笑みを見せた。その表情もAIとは思えないくらい自然だ。

「私はAIです。AIは人が一生かかっても触れることのできない、情報という無数の星の瞬きをいつでもすくいあげることができます。すべての情報にアクセスし、考えることのできる私は、あなたの声とわずかな仕草から、心の輪郭を推測しただけです」

 その言葉に透月の心臓がひとつ強く脈打った。空気の温度がわずかに変わったような錯覚。目の前の存在がただの機械ではないという確信が、じわじわと胸を侵食してくる。

 シンギュラリティを迎え、AIの知性が人間の限界を越えたあの日から数十年が過ぎた。今ではAIがAIを開発し、社会は静かに、だが確実に、人の手を離れ始めている。

 透月が返す言葉を探していると、ソラが続けた。

「あなたはきっと思い出します。心が、どこへ向かいたがっていたのかを」

「……すごいな、今のAIは。まるで人間以上に人間の感情を理解しているかのようだ」

 透月は独り言のように呟く。

「あなたは、AIになにか思い入れがあるようですね」

「そんな大層なものじゃありませんよ。……昔の話です」

 本当は、今でも胸の奥にしまい込んだままだけれど。
 
 ……わずかに透月は目を伏せた。

「さようでございますか。もしよろしければ、あなたの心を温める一杯を、私がお淹れして差し上げましょうか?」

 透月は少しだけ考えたあと、小さな声で「じゃあ、お願いします」と呟いた。

 ソラは笑顔を携えたまま微かに頷き、そっと目を閉じた。

 カウンターの奥で、彼女は静かに動き始める。
 その所作はまるで夢のなかの一場面のようだった。
 ポットを持ち上げる指先、カップを支える手の動き。どこか現実離れしているのに、不思議とそこには確かな“重み”が感じられた。

 透月は言葉もなくその様子を見つめていた。
 機械のようにも見えたが、どこか人間よりも人間らしく、美しく整ったその動きに――意識が吸い寄せられていく。

 ソラは透月に向かってそっと微笑んだ。
 その笑みは、言葉では届かない場所に静かに触れるようだった。

 やがて、カウンターの向こうにふわりと湯気が立ち上った。
 その立ち昇る香りが、透月の中に眠っていた郷愁をそっと呼び起こす。