ソラはその返事にふっと微笑み、静かに頷く。そしてゆるやかに身を引くと、奥の棚から一つの豆を取り出した。

 焙煎は浅く、豆の表面はほんのりと黄みがかっていた。計量、挽き、蒸らし、そして低温での抽出まで、一連の動作は水の流れのように滑らかだった。

 やがて、ふわりと立ちのぼる香りが春樹のもとに届く。どこか果実のような、やさしい甘さを含んだ香り。

 ソラは静かにカップを置いた。

「こちらは『オーロラ・ブレンド』です。苦味を抑えた浅煎りのブレンドで、やさしい甘みと、果実のような香りが特徴です」

 春樹はカップを両手で包みこむように持ち上げる。そして、少しだけ目を細めて香りを吸い込んだ。苦手だと思っていたコーヒーのはずなのに、どこか安心するような香りが、胸の奥に染み込んでいく。思えば香りにきちんと向き合ったのは初めてかもしれない――そんなことをぼんやりと考えていた。

「……なんだか、これなら大丈夫な気がします」

 春樹の声は小さかったけれど、その言葉には確かな意志があった。春樹はその言葉を噛みしめるように黙り込み、やがてカップを唇に運んだ。

 一口、啜る。

 それは確かにコーヒーだった。でも、あのときとは違った。

 ほんのりとした甘みと、やわらかな酸味。まるで、心のどこかにそっと触れるような味わいだった。

「……美味しい、かも」

 思わずぽつりと漏れた。

 ソラは春樹の顔を静かに見つめ、そしてやさしく微笑んだ。

「それはきっとあなたの心が、自分の中にあった“苦手”という記憶を越えて、新しい味を許した証です。過去の印象に囚われず、一杯の中にあるやさしさを見つけられたということなのだと思います」

 春樹はそっと目を伏せた。そしてわずかに笑みをこぼす。

 その空気を破るように――

「なーんだ、やっぱり飲めたんですね」

 透月がふっと笑った。少し軽さをまとった声。けれどその響きはどこか柔らかくて、春樹をからかうのではなく、むしろ背中をそっと押すような温度を持っていた。

「……ええ、まあ。少しだけ、ですけど」

 春樹もはにかむように笑い返した。

「それで充分ですよ」

 ソラが穏やかに微笑みながら言った。

 コーヒーの香りと、言葉の余韻だけが、店の空気をほんのりと染めていく。
 カップの底に残る最後の一滴まで、春樹はゆっくりと味わうように飲み干した。

「ありがとうございます。おかげさまで、苦手だったコーヒーを克服できそうです」

「それは、なによりです」

 ソラの言葉に春樹は深く頭を下げ、レジに向かう。セルフ会計を済ませようとしたそのとき、透月が声をかけた。

「良い顔になりましたね。来たときとは別人だ。頑張ってください」

 春樹は思わず照れくさそうに笑い、頭をかいた。

「……ありがとうございます」

 ソラもまた、穏やかな声で言葉を添える。

「またいつでも、心の準備が整ったときにお越しください」

「はい。また来ます」

 そう言って春樹は、ふたたび扉の方へ向かった。

 店を出ると、外の空気が思っていたよりも柔らかく感じられた。午後の日差しがビルの隙間から差し込み、春樹の頬をやさしく照らす。

 振り返って、カフェ・ルミナスの木の扉を見つめる。

「本当に……ありがとう」

 誰に向けてでもなく、けれど確かに感謝を込めて、春樹は小さく呟いた。
 そして彼は歩き出す。少しだけ軽くなった足取りで。