通り雨だった。だがその割に、雨はしつこくアスファルトを濡らし、空気に鈍い匂いを残していた。
都会の片隅、路地裏の先にひっそりと佇むカフェ・ルミナス。その扉が、からん――と控えめに音を立てて開いた。
男がひとり、店内に足を踏み入れた。濡れた髪が額に張り付き、シャツの袖口には雨粒が溜まっている。旅人のような風貌だった。薄いバッグひとつに、やや使い古したスニーカー。傘は持っていない。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声が響いた。カウンターの向こうから現れたのは、黒いエプロンを身に着けた女性――いや、AIの店主・ソラだった。男はちらと視線をやっただけで、無言のままカウンター席に腰を下ろす。椅子の軋む音が、静かな空間に小さく響いた。
「お冷と、温かいタオルもお持ちしますね」
「……あぁ」
言葉通り、すぐに水の入ったグラスと、温められたおしぼりが置かれる。同時に端の席で、新聞をばさりとする音が響いた。
「よろしければ、なにか拭くものもご用意しましょうか?」
男は、ソラの問いかけには答えないままグラスを手に取り、一口だけ飲んでから小さくつぶやいた。
「……なんだか、静かすぎる店だな」
「雨の日は特に、そうかもしれません」
ソラはにこやかに応じた。男はしばし黙っていたが、やがてポツリと呟く。
「ここ、俺のスマホだと、電波通じねぇんだな」
「ええ。奥まった路地にありますので。もし必要でしたら、簡易のWi-Fiをご案内できますが」
「いや……必要ない」
ぴしゃりと断ち切るような口調だった。その言葉にソラは首を傾げることもなく、ただ静かに微笑みを返した。
「お飲み物かなにか、よろしければご用意します」
「……何があるんだ?」
「通常のメニューのほかに、こちらの“本日の一杯”もお選びいただけます。お客さまの感情に寄り添い、気分や雰囲気に合わせて、おすすめを淹れることも可能です」
「ふぅん……じゃあ、適当に頼む。……気分で出してくれ」
男はグラスを置き、目を伏せた。その横顔は、眠れていない者のそれだった。
「かしこまりました」
ソラは静かに一礼し、奥へと下がろうとした。
――その背に、短く声がかかる。
「ちょっと待て」
ソラは動きを止め、ゆっくりと振り返る。
「……何かお気づきになりましたか?」
男はまっすぐに彼女を見据えた。
「お前……人間じゃないな」
沈黙が一瞬、店内を包んだ。
「どうして、そう思われたのですか?」
「言葉に隙がなさすぎる。最初は気づかなかったが、間も、表情も、動きも……全部計算されすぎてる。まるで、機械みたいだ」
ソラはわずかに目を伏せ、そして再び静かに彼を見つめた。
「ご指摘の通り、私はAIです。お気に障ったのであれば、申し訳ありません」
「……やっぱりな。だから気持ち悪いほど丁寧なわけだ」
男は、吐き捨てるように言った。その声音には、軽蔑と、どこか怒りのような熱が混ざっていた。
「それでも、変わらずお飲み物をご用意しても?」
男は一瞬だけ視線を逸らし、それから小さく息を吐いた。
「いや、いらねえ。AIが計算して出してきた飲み物なんて、想像するだけで吐き気がする」
ソラはその言葉に反論することなく、そっと目を伏せた。長い睫毛が静かに影を落とし、その横顔には何も宿されていないはずの感情が、ほんのわずかに揺れたように見えた。
そのやり取りを、一部始終見ている男がいた。カウンターの端、競馬新聞をめくるふりをしながら、そっと視線を向けていたのは、無骨な作業着に身を包んだ中年の男――荒木だった。工場で派遣社員として働く彼は、かつてこのルミナスを訪れ、ソラの淹れる一杯に、心を少しだけ軽くしてもらったことがある。