しばらくの間、三人のあいだに言葉はなかった。だけど、何かが確かに、そこに流れていた。

 やがて、このかがスマートフォンを取り出した。画面を見つめる彼女の指が、ほんの少し震えている。

「……久しぶりに、連絡してみようかな。……あの子に」

 アケミが目を見開く。

「お、もしかして、例の“止めようとしてくれた子”?」

「うん。……でも、もう、どう思ってるかわかんない。わたしのこと、嫌いかもしれないし……」

「だったらさ、聞いてみたらいいよ。このかちゃんの気持ち、ちゃんと伝えてさ」

 ソラが静かに言葉を添える。

「思い出は、あなたの中だけに留まるものではありません。伝えることで、重なることもあります」

 このかは頷き、小さく息を吐いた。

「……なんて送ればいいかな」

「それはねえ……」

 アケミはすっと自分のスマホを取り出して、画面を見ながら考え込む。

「じゃあ、こういうのはどう? 『久しぶり。いろいろあって距離を置いちゃったけど、本当はずっと感謝してた。ありがとう』……とか」

 このかはしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。

「うん。……それ、送ってみる」

 小さな指が、慎重に文字を打ち込んでいく。最後に深呼吸をして——送信。

 メッセージが送られてから、数十秒も経たないうちに返信が届いた。

《心配してたよ! ずっと連絡待ってた。また会いたいな》

 このかの瞳が、微かに揺れる。

 そのとき、外の雲がゆっくりと晴れて、窓辺に一筋の光が差し込んだ。

 そして、ソラがカウンターからそっと声をかける。

「おめでとうございます。このかさん。……ささやかですが、お祝いの一杯をお二人に、よろしければ」

 アケミがぱっと笑顔になる。

「えっ、それ、私も飲んでいいやつ?」

「もちろんです。二人に特別なミルクティーを——“シュクレ・セレナーデ”です。甘い、小さな小夜曲をお楽しみ下さいませ」

 ほどなくして、琥珀色のやさしい湯気を立てた二つのカップがテーブルに置かれた。

 このかが、静かにアケミの方を見つめた。

 アケミは少し照れくさそうに笑って、そっと声をかけた。

「……よかったらさ、乾杯、する?」

「うん」

「ミルクティーで乾杯ってのも、なんか変だね」

 アケミの言葉に、このかがくすりと笑う。そして、二人のカップがそっと触れ合うと、小さくてやわらかな音が、ルミナスの午後に響いた。

 その一音は、まるで再出発の合図のようだった。誰にも聞こえない、小さな決意の鐘の音。

 このかの胸の奥で、何かがそっと動き出す。まだ答えは出せないけれど、少なくとも、今日は来てよかったと思えた。このかの小さな勇気は、今日という午後に蒔かれた芽。きっといつか、胸の奥でそっと芽吹き、やがて静かに花を咲かせるだろう。

 窓の外では、春の光が街角をやわらかく照らしていた。


【本日の一杯】

◆シュクレ・セレナーデ

産地:遥か霧の彼方、星の巡る高原〈セレナの丘〉で摘まれた幻想の茶葉と、月下に咲く夢見草の莢から採れたバニラ

製法:低温抽出で香りを最大限に引き出した後、ミルクでじっくり煮出す特製チャイ仕立て

香り:紅茶の渋みの奥に、やわらかく甘いバニラとシナモンの香りが重なり、まるで記憶のなかの旋律をそっと呼び起こすよう

味わい:ほんのりスパイシーで、深いミルクの甘みが余韻として残る。ひとくちごとに、心がふわりと緩んでいく

ひとこと:「心の奥に静かに響く小夜曲。甘さのなかに宿る、小さな勇気と記憶のぬくもりが、再出発の一歩をそっと照らしてくれるような一杯です」