今夜の夕食は牛丼の並盛りに生卵だけ。味噌汁は我慢した。
荒木純一、四十六歳。工場で契約社員として働き始めて、もう七年になる。六ヶ月ごとの更新。ボーナスも退職金もない。職場の若い奴らはスマホで副業の話をしていて、休憩中も笑い合っている。
「こちとら昼飯の100円単位に神経使ってんだよ……」
食後ふらふらと立ち寄ったコンビニで、発泡酒を一本買った。“本物のビール”は高くて手が出しにくい。でもアルコール度数は一緒だ。
店を出ると空には街灯の光がぼんやりと滲んでいた。冷たい缶を持ったまま、なんとなく歩き出す。目的はない。ただ、帰りたくなかった。
「最近……物騒なニュースが多いよな」
誰に言うでもなく、つぶやいた言葉が風に溶けていく。自分と同じような世代が無差別に人を傷つけたという記事を、もう何度も読んだ。
「わからなくもねぇんだよな……ああいうの」
その“共感”が、何より怖かった。
そのとき、歩道の端に見慣れない看板が灯っているのに気がついた。
洒落た字で《カフェ・ルミナス》と書かれていた。
なんとなく足が止まり、なんとなくドアを開けると、小さな鈴の音が店内の静寂をやさしく揺らした。
「……バーかと思った」
漂うコーヒーの匂いに包まれながら、荒木は呟いていた。
木の香りが混じる空気。照明は控えめで、店の奥からカウンターがひっそりと続いている。音楽はかすかに流れていたが、何の曲かは判然としない。
誰もいないかと思ったその時、カウンターの向こうからふわりと現れた影があった。
「いらっしゃいませ」
透き通るような声。女とも男ともつかない、機械のようでいて、どこか温かみを含んだ響き。
「……ここ、バーじゃねぇの?」
荒木がそう言うと、カウンターに立つ人物はゆるやかに首を振った。
「いえ、こちらは珈琲店です」
「じゃあ、いいや。コーヒーなんかに金使う気分じゃねぇし」
荒木が踵を返そうとした、その瞬間――
「でしたら、今のあなたに必要な一杯をご用意しましょうか?」
カウンターの奥から響いたその声に、思わず足が止まる。無理に引き止めるのでもなく、どこか“呼びかけられている”ような響きだった。
「……は?」
荒木は振り返り、少しだけ眉をひそめた。それでも、結局は黙ってカウンターの端に足を向け、どさりと腰を下ろす。
その様子を見て、ソラは静かに微笑んだ。
「では……お好みに合わせた一杯を、お出ししますね」
荒木が返事をするより早く、ソラは背を向け、ゆっくりと動き始めた。


