「ありがとう、“あいちゃん”。あなたと話せて、また夫に会えた気がするわ」

 ソラは微笑みながら答えた。

「音には、記憶を包む力があります。……まるで、その時の空気さえも再現してくれるようです」

 少しだけ間を置いて、ソラは続けた。

「けれど……私は、その“空気”の重さまでは、まだ分からないのかもしれません」

 ツネは優しく微笑んだ。

「いいのよ。わたしだって、若いころはわからなかったもの。人の気持ちなんて、いつだってあとから気づくものよ」

「……では、私も、少しずつでも気づいていけるでしょうか」

「ええ、もちろん。あなたならきっと大丈夫。だって、今日のわたしの気持ちに、ちゃんと気づいてくれたもの」

 ツネは立ち上がり、杖を持ち直す。

「また来てもいいかしら? わたし、まだ“あいちゃん”とお話したいこと、たくさんあるの」

「ええ、いつでもお待ちしております」

「カセットは置いていくわ。またここで“あいちゃん”とお喋りするときのために、ね」

「かしこまりました。私もツネさまとまたお話できる日を、楽しみにしています」

 カフェの扉が閉まったあとも、店内にはあたたかな余韻が残っていた。

 扉越しに、ツネの小さな背中が夕暮れの路地をゆっくりと歩いていくのが見える。杖の先が石畳に小さく響くたび、彼女の歩みが、誰かの記憶を静かに撫でていくようだった。

 ふとツネが立ち止まり、こちらに顔を向ける。遠くて声は聞こえないが、唇が「ありがとうね」と動いたように見えた。

 ソラは、その仕草に深く頭を下げる。まるで、過去と未来が一瞬だけ交差したことへの敬意のように。

 そして静かにラジオの音量を下げ、カセットをもとのケースに戻す。そのラベルに指先で触れながら、そっと呟いた。

「……また、お会いできるといいですね」

 その言葉がツネに向けたものなのか、それともソラがツネを想って自然に口にしたのか、ソラにはわからなかった。

 だけどその瞬間、ほんのわずかにソラの胸に熱が灯ったように感じた。それは、確かに“誰かを想う”という気持ちに近かった。けれどそれが“感情”というものなのか、それとも記憶に触れたときに生じるプログラムの波紋なのか、彼女にはまだ答えが出せなかった。

 ただひとつ確かなのは——ツネというひとりの来訪者が、このカフェに確かに“灯り”を残していったということだった。


【本日の一杯】

◆琥珀潮ブレンド

産地:港町の海沿いに佇む珈琲樹園

焙煎:火入れはやや深め。カップの中に琥珀色の液面が沈みかけた太陽のように揺れ、ほのかなキャラメルの焦げ香とミネラルの余韻が残る。

香り:焦がし砂糖と、潮風を感じさせるミネラルノート。ふと胸の奥が疼くような、懐かしい港の香り

味わい:丸みのある苦味に始まり、ふわりと甘さが残る。最後に舌先に残る微かな塩気が、まるで別れ際のひと言のように心に触れる

ひとこと:「——遠い日に誰かと交わした約束や、まだ言葉にできなかった想いに、そっと寄り添う一杯です」