小さな黒猫が、彼の前で大きなあくびをした。
「トワ」

俺がそっとその背中に声をかけると、ゆっくりとその人物が振り返り、
俺を見てにっこりと笑った。

「ふ……いわやつで……
ふ……
……ふ……れ……」

小さな赤い唇がかすれた声でそう言った瞬間、俺は涙があふれてあふれて止まらなくなった。
そうか。
きみは、俺の名前をずっとひとりで練習していたんだな。
俺に知られないように。

俺は、あふれる涙をぬぐいもせず、小さなトワをきつく抱きしめた。
すると、
トワも、俺にぎゅうっとしがみついてきた。
それは、
初めて、俺たちがおたがいの体温を知った瞬間だった。

「かえろう、トワ。かえろう」
俺は涙ながらにトワにそう訴えた。
「おうちへかえろう。トワ、
おれといっしょに」
俺が、たどたどしく何度も何度も繰り返しそう言うと、
「ふれ、ぽぴー!!」
と、トワが元気よく答えた。

それから、
小さなトワと俺の間には、ちょっとした変化があった。

「今日も良い天気になりそうだね、トワ」
「ふれ、さくらそう!!」
トワは、
花の名前の前に俺の名前をつけるようになった。
小さな黒猫は今日もうちの庭の片すみで大あくび。

「きみは本当によくお花の名前を覚えているね、トワ」
俺が小さな彼をぎゅうっと抱きしめると、彼も俺をぎゅうっと抱きしめる。
心地よい温度のお風呂のようなぬくぬくとしたふくよかな身体だった。

「ふれ……」
「ん、どうした? トワ」
「ふれ……」
「ん、ゆっくり言って」

言葉に迷うトワの頭をゆっくりと撫でながら、俺は優しくほほ笑む。

「ふれ……き、き、
きれい……」

「え?」
トワが明るくニコーッと笑って言った一言を聞いて、
俺はぽかん、とする。

「ふ、ふれ、こぶし!!」
「え、あ、うん」
「ふ、ふ、ふれ、もっこうばら!!」
「う、うん」
「ふ、ふれ!!
はくもくれん!!
ふ、ふ、ふれ、むすかり!!
かたくり!!
きれい!!」

矢継ぎ早にそう叫んで、得意そうににぱっと笑った小さなトワの笑顔を見て、
俺は、なぜか、とても顔が熱くなるのを感じていた。
そうか。
トワ、きみは、

俺にずっと、
「あなたは綺麗だ」と言いつづけていてくれたのか -