氷壁エリートの夜の顔

「東條氏は、取材のあと編集者と食事に行くことが多いらしい。だから、行くなら今がいいって」

 私は頷いて、深く呼吸を整えた。

 「アポイントはありませんが、桜咲が参りましたとお伝えください」

 受付でそう告げたとき、自分の声がわずかに震えてるのがわかった。
 門前払いされるかもしれない──そんな予想に反して、私の名前はすぐに通じた。

 拍子抜けするほどあっさりと、東條氏のプライベートオフィスへと案内される。

 エレベーターが音もなく上昇し、高層階で静かに止まった。
 足音が、廊下に敷かれた毛足の長い絨毯に吸い込まれていく。
 聞こえるのは、自分の鼓動だけ。

 角部屋の前で、ノックをした。
「どうぞ」という声がして、私はゆっくりとドアを開けた。

 逆光のなか、ガラス窓を背にして立っていたのは──あの日、家を出て行った「父」ではなかった。

 そこにいたのは、東條忠宏。
 洗練されたスーツを纏い、柔らかな笑みを浮かべた、経済界の良心と呼ばれる男だった。

──けれど、その笑顔はあまりにも整いすぎていて、長年、演じ慣れた仮面のようにも見える。