氷壁エリートの夜の顔

「咲」

 ふいに──名前で呼ばれた。
 顔を上げると、結城さんが静かに、まっすぐにこちらを見つめていた。

「わかってる。あの人は、人格者とか経済界の良心とか呼ばれて、世間では立派な人物に見える。俺だって、絢音から聞くまでは、そう思っていた」

 私は息を呑んだ。

「向き合いたくないのは当然だ。だけど咲が沈黙したままなら、彼はこの先も、何の責任も負わずに生きていく」

 穏やかな声が、まっすぐ心に突き刺さる。

「これは復讐じゃない。もちろん、和解でもない。全部、君たちの未来のためだ。──お母さんは倒れ、双子は進学を控え、君は……限界まで来ている」

 涙をこらえるために、私は唇を噛んだ。

「だから──もうひとりで抱え込まないで。君の優しさで、君自身の未来を犠牲にしないでほしい」

 そう言って、結城さんは私をそっと抱き寄せた。

 吸い込んだ息がかすかに震える。肩を包む手が、一度だけ強く握られて、ゆっくりと離れた。

 そして、彼はまっすぐに私を見て言った。

「君は気づいていないかもしれないけど──君が未来を犠牲にするということは、君と共に歩きたいと願っている俺の未来も、同じく失われるということなんだ」