氷壁エリートの夜の顔

 母は「ありがとう」と言って、ベッドの上で、私の手をそっと握った。

「お母さんの職場にも、連絡入れておいたよ。みんなすごく心配してた」

「給食のおばちゃんが低血糖だなんて、子どもたちには内緒にしなくちゃね」

 隣の典子さんが、クッキーの入った箱を開けて差し出した。

「幸恵さん、血糖値が低いのね。私たちの年齢は、甘いものでバランス取るのが一番よ」

 母は笑いながら1枚取る。

「ありがとう。お菓子は心のサプリメントよね」

 あたたかくて、にぎやかな病室。
 軽口が飛び交い、笑いが広がっていく中で、母はいつものように、誰よりも朗らかに笑っていた。

──だから私は、言えなかった。
 肺に影が見えたことも、精密検査のことも。

 主治医から、明日あらためて本人に説明があるという。
 ならば今は、目の前の笑顔を曇らせたくなかった。

 病院を出るころには、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
 足元に伸びた自分の影が、やけに細くて、頼りなく見えた。