氷壁エリートの夜の顔

 そっと呼吸を整えて、あの日の雷を思い出す。
 食器棚が倒れる音。父の怒鳴り声。泣き叫ぶ母。耳を塞ぎ、縮こまっていた自分。
 無力感と恐怖を突きつけるような、鼓膜を裂く雷鳴。

──けれど、この家の記憶は、それだけじゃなかった。

 布団の中で柚月と律希に絵本を読んだ夜。
 みんなで皮を包んだ餃子。
 湯船の中で数を数えたこと。
 泣いたり、笑ったり、ただふつうに過ごした時間たちが、たしかにこの家には存在していた。

 この天井の下で、私は生きていたんだ。
 その、ごく当たり前の事実が、今は静かに胸を満たしていく。
 大切だったことを、思い出せてよかった。

 ふと、結城さんのことが頭に浮かぶ。

 きっと私は、誰かを好きになる余裕なんて、最初からなかった。
 それでも、あの日、彼に抱かれた時間は、まるで宝物みたいにきらめいていた。

 好きになったのが間違いだったんじゃない。
 好きでいられる状況じゃ、なかっただけ。

──恋愛なんて、やっぱり私には贅沢すぎた。
 でも私は、そこから宝物を一つ、ちゃんと拾ってこられた。

 それで、もう十分だ。

 まずは、ちゃんと現実を見よう。
 私は、自分の手が届くものだけを、大切にしていかなければならないのだから。