たしかに、桜さんに少しだけ惹かれたのは事実だ。
 けれど、感情は抑えられると思っていたし、仕事に私情を持ち込まなければ、それで済むはずだった。

 それでも接点は少しずつ増え、気づけば彼女の存在が、無視できないほど大きくなっていた。

 意識が変わったのは、一緒にほうとうを食べたとき。
 そして決定的になったのは、彼女が風邪で倒れた日だ。

 ずっとブレーキになっていた「遠距離の恋人」が、実は存在しないと知ったとき──
 俺の理性は、あっけなく崩れた。

 そう、俺ははっきりと自覚した。
 もう引き返せない。
 どうしても、この人が欲しい。

 彼女を家に誘ったのは、なにか仕掛けようと思ったわけじゃない。
 いや、下心がなかったと言えば嘘になる。だけど──それ以上に、ちゃんと向き合って、スタート地点に立ちたかった。

 だけど、その夜は、想定外の連続だった。
 彼女との会話が楽しくて、手作りプリンが驚くほど美味しくて、月明かりに照らされた横顔が、息を呑むほど綺麗で──
 気がつけば、唇を重ねていた。

 彼女は、明らかに慣れていなかった。
 キスの合間に、溺れるように空気を求め、それでも目を逸らさずに、俺の髪をまさぐった。
 細い腰に手を回したとき、俺は、力が少し強すぎたかもしれないと思った。
 でも──彼女は迷いなく、俺の首に腕を絡めてきた。

 その仕草が、どうしようもなく愛おしくて……気づけば、理性の輪郭は消えていた。