──香坂絢音さん。

　彼女は店内をゆっくりと見渡し、私を見つけると目を細めて微笑んだ。

　カウンター席には、祐介くん以外誰もいない。
　彼女は迷いなく歩み寄り、雑誌のモデルのような笑顔で言った。

「こんばんは、桜さん。ビール、グラスで」

　状況が呑み込めないまま、「はい」と返し、ドリンクサーバーのレバーを引いた。動揺が伝わらないよう、ビールを注ぐことに集中する。

　お通しの小鉢とビールのグラスを受け取った彼女は、笑みを崩さないまま言葉を続けた。

「今日ね、本当は颯真と来る予定だったの。でも、彼、ちょっと立て込んでるみたいで。あなたがここで働いてるって聞いたから、ひとりで来てみたの」

　そう言って、彼女は箸を手に取り、お通しをひと口、ゆっくりと味わう。
　続けて、びいどろのグラスに手を伸ばし、なめらかな仕草でビールを口に運んだ。

　祐介くんが、ちらりと彼女を見て、それから私の顔を一瞬だけうかがった。
　私は、彼の意図には気づかないふりをして、笑って返す。
　彼は何も言わず、静かにお茶をすすった。