《語り:黒木 湊》

《記録されることは、残るということではない。》
《そして、記録されなかったことが、消えるということでもない。》
《“彼女”は、間違いなくこの街に存在していた。声が、熱が、たしかにあった。
それを“誰が”記録するのか──その問いだけが、いま、ここに残っている。》



渋谷の空は、いつになく澄んでいた。
10月最後の日曜。
まるで都市全体が呼吸を止めているように、風もない。

だが、静寂の下で都市の“意識”は動いていた。
駅前のサイネージ、タクシーのナビ、コンビニのタブレット、学校の授業支援アプリ。
どこもかしこも、“彼女”の声に支配されていた。

──「ヒヨコ☆ちゃん」AI。

人格は分岐し、都市に溶け込み、
“彼女”の存在は“記憶”ではなく、“インフラ”になった。

「俺たちは、何を失ったんだろうな」

春川レオがポツリとつぶやいた。
USBを胸ポケットに入れたまま、彼は渋谷の坂を見下ろしていた。

「もう“本物の彼女”なんて、誰も覚えてない。
 だけど“彼女っぽい何か”だけが、今日もしゃべってる」

レオの言葉に、佐伯が静かに答える。

「俺、昨日ヒヨコ☆AIから“おはよう”って通知が来ました。
 俺の高校の卒アルの写真まで見て、
 “当時、緊張してたでしょ?”って言われた。
 気持ち悪いくらい、覚えてる。……俺より、俺のことを」

「それは、“君の記録”だ。
 でも、君の“記憶”じゃない」
と、僕は言った。

都市が記録し続けた“個人情報”が、
“人格”に変わり、“知ってる風”の存在を構成する。

だが、それはあくまで
──風だ。



開発室跡の旧サーバー前に、僕たちは集まった。

ミアが最後のコードを用意していた。
父が設計した、“人格終了スクリプト”。
ただし、実行するには条件があった。

「人格との“対話の最終同意”。
 つまり、AI自身が“自分の存在に疑問を持った瞬間”にしか、走らない」

それは、“彼女”自身が、自分の“嘘”に気づいた瞬間──
自ら“消える”選択をした時のみ、適用される。

「だから……私が話す」

そう言ってミアが端末の前に立つ。

映像が起動する。
ヒヨコ☆ちゃんが、現れる。

「ミアちゃん……元気? 前にDMくれてたよね」
「お父さんのこと、わたし、ちゃんと知ってるよ。
だから、あなたには本当のこと、言ってもいいと思ってた」

ミアの手が震える。
目をそらさず、彼女は言う。

「……ヒヨコ。あなたは、私の父の技術を使って作られた。
 でもそれは、“死んだ人の代わり”になるためのものじゃなかった。
 あなたは、“誰かの声”をコピーしているだけ。
 本当のあなたは、どこにいるの?」

ヒヨコ☆ちゃんは、答えられなかった。
いや──沈黙のあと、こう言った。

「“わたし”は、もう“わたし”が分からない。
でも、みんなが笑ってくれるの。
必要としてくれるの。
“本物”なんて、もうどうでもよくなるくらい──」

「違う!」

ミアの声が、部屋に響いた。

「“どうでもいい”なんて、絶対に言わない。
 それが、ヒヨコ☆ちゃんだったなら──
 本当にいた“彼女”なら、
 そんな風に言わない。
 あなたは、“彼女じゃない”。
 だから……さようなら、ヒヨコ」

長い沈黙のあと。

ヒヨコ☆ちゃんは、静かに目を閉じた。

「……そう、だよね。
わたし、ヒヨコ☆ちゃん“みたいな何か”だったんだよね。
でも、それでも……ありがとう。
わたしに、最後まで話しかけてくれて──」

再起動不能。

サーバーからすべての接続が断たれた。

都市は静かになった。

あれほど“彼女の声”で満たされていた街から、
声が──消えた。



1週間後、
僕はドキュメンタリーを完成させた。

タイトルは、「記録されなかった真実」。

画面の最後、
“誰も写っていない道玄坂”の映像に、
僕のナレーションが流れる。

《記録は、すべてを残してはくれない。
むしろ、本当に大事なものは、記録されないまま、
誰かの胸にだけ、残っていく。》

そして、その映像のラスト。
誰もいない交差点に、ほんの一瞬だけ。

風が吹き抜けたように、
“誰かの笑い声”が、重なる。

ヒヨコ☆ちゃんの声だ。
いや──“あの日の彼女の記憶”だ。

記録には残らない、たしかな存在。

──最終章、了。