別に、迷っているわけではない。

 背中を少し丸めた小柄な男性、通称無能教師佐々木秀明は校内を徘徊していた。

 ほとんどの生徒が部活に行くか、家に帰るかで昼とは打って変わった静寂に包まれる放課後で、ちらちらと何故か周りを気にしながら。

 冒頭で述べられた言葉、それは他ならない佐々木の脳内に浮かんだ言葉だった。

 佐々木はもう時間にして約三十分、ふらふらと校内の主に高校生が使用する棟を中心にして練り歩いていた。

 まず一年三組を覗きに行き、誰もいないことに落胆し。次に図書室、保健室、他の一年の教室。職員室に一旦戻り、体育館に行き、いろんな学年の教室までぐるぐると。

「はあ」

 何故?

 彼は何故、さながら学校探検とも呼べてしまうようなことを長い間続けているのだろうか。

 理由は簡単だ。簡単だが、容易に口にはできないこと。

 いや、容易、なんて言葉では生温いだろう。佐々木も自分できちんと理解している。

 タブー。禁忌。ルール。御法度。

 世間一般で考えて、絶対にしてはいけないこと。

「……まだ学校にいるかなあ……」

 ふと、佐々木の口から、溜まりに溜まった本心がもう耐えられないとばかりに溢れ、この静かな廊下に落ちてしまう。

 佐々木はそのことに気づかない。佐々木は、自分が発言したことに気づいていない。

 佐々木は探し続ける。学校にいるかも分からない、ある女子生徒のことを。

 その生徒は佐々木の授業を真面目に、真摯に聞き、受け止めてくれる唯一の生徒。

 一年三組、三十五番。大人しく、慎ましやかな性格で、口調はまるでどこかのお嬢様。

 いつも自分の席で本を読んでいて、放課後は教室で本を読むか、図書館に行くか、すぐに家に帰るかのどれか。

 その生徒が通うこの高校、綿吹高校には文学部もあるが、どの部にも所属していないいわゆる帰宅部。

 友達は少ないようだが、たまに隣の席の男子生徒と会話をしている。

 菊田紬。

 そう、佐々木は、菊田紬という女子生徒に密かな恋心を向けているのだ。

 前述の通り、佐々木は理解している。好意を持つことは百歩譲ってまだ許されるとしても、恋愛関係を持ってしまうのは犯罪であると。

 最低でも懲罰処分は免れないだろうし、最悪逮捕となってしまう可能性もある。

 故に佐々木は恋心を包み隠している。

 勿論、もし佐々木が菊田紬と付き合うため動いたとしても、必ずしも結ばれるわけではないが、佐々木はその可能性を考慮していない。

 佐々木秀明。二十四歳。

 菊田紬が所属するクラスの副担任を担当しており、教科は数学。

 佐々木は、長所とも短所とも取れる特徴を持っていた。

 それは、根拠のない絶対的な自信。

 自分が間違っていると思ったことは一度もないし、容姿は整っている、自分は頭がいいんだと自負している。

 実際、頭は良く、容姿もそれなりに整っている。

 だが、佐々木はよく間違える。勘違い、とも言える。

 自分は授業が上手いと思っているが、実際のところとても下手。

 生徒が自分の話を聞かないのは自分の話がとても高度なものだから。

 佐々木は本気でそう思い込んでいる。

 それ故に自分が未だに副担任ということに憤りを感じている。別に、二十四歳という若い年齢でクラスを持てていないことは全くおかしくなく、むしろ普通な事なのだが……佐々木の習性を考えればその後に続く文など容易に想像できるだろう。

 もうここまで読めば理解できるだろうが、そんな佐々木は今、菊田紬を探して校内を徘徊している。

 何か話すわけではない。ただ、一目みたいのだ。

 それだけ佐々木は菊田紬のことを恋慕っている。

 そんな佐々木は校内を歩き回り、すっかり人気の無い場所まで来てしまった。

 旧校舎。

 現在、二階が男子生徒の更衣室となっているが、一階は何にも使われておらず、いずれ取り壊されるだろうと言われている場所。

 掃除もしていないので埃っぽく、薄陽が差し込むだけの古びた廊下は春にしては少し肌寒い。

 男子はこんなところで着替えているのかといささか可哀想に思えたが、自分には関係のないことだとすぐ忘れた。

 この旧校舎は二階建てである。二階建てといっても狭いわけでは無く、一階一階が広いのだ。

 佐々木は広い校舎の一階をまだ回りきれていなかった。

「もう戻ろうかな」

 佐々木はそうぼやく。

 まさか菊田紬がこんなところにいるわけないし、もう探すだけ無駄だろう。

 でも、万が一、億が一、ここに菊田紬がいるのなら。

 佐々木はひどく後悔する。

 勿論佐々木はそれも分かっているのでなかなか放課後の業務に戻ることはできない。

 これでも以前よりかはマシになったほうなのだ。

 以前までは見逃してしまった可能性もあると下校時間まで探し回っていた。

 一度学年部長直々に説教をくらってからはなくなったが。

 佐々木は辺りを注意深く見回り歩き続け、とうとうこの校舎の深窓まできてしまった。

 あと残った教室は二部屋で、どちらの教室にも灯りが灯っておらず、静かだ。

 まあ、灯りといってもあってないようなものだが。

「帰るか」

 佐々木はひどく悲しそうな声でそう言う。

 今日も菊田紬に会えなかった。授業もなかったし、顔すら見れていない。

 それでも佐々木はまだ、いつもよりかは気分が沈んでいるわけではなかった。

「明日、会えるし」

 明日には一限目から数学の授業がある。

 菊田紬が休まない限り必然的に会う事ができる。

 佐々木は沈んだ気持ちを切り替えて、その二つの教室に背を向け歩き出そうとしたその時。

 声が、した。

「今宵も始めましょう」
「始めましょう」
「始めましょう」
「始めましょう」
「今宵の主題は『菊田紬』」
「『菊田紬』」
「『菊田紬』」
「『菊田紬』」
「あの儚げな瞳に」
「あの艶やかな髪に」
「あのしなやかな身体に」
「「「「何を秘めているのか、何を孕んでいるのか」」」」
「「「「今宵、明らかに致しましょう」」」」

 四人の、美しい声が入り混じる。

 一人は、成熟した色めかしい声で。

 一人は、幼なげで溌剌とした声で。

 一人は、透き通った濁りがない声で。

 一人は、力強く芯がはっきりとした声で。

 菊田紬。その言葉が挙げられた途端、佐々木の心臓が大きく脈打った。

 何の話だ、菊田紬にまさか、隠し事があるのか?

 佐々木が背を向けた深窓の教室で、その小さくも綺麗で響く声が鳴る。

 菊田紬。その言葉が挙げられた途端、佐々木の体は硬直し、すっかり四人の密談に聞きいってしまった。