ページのすみで揺れていたもの

検査室の前まで来ると、さすがに少し緊張してきた。

いざ目の前まで来ると、心臓は正直だった。

藤澤「……緊張してる?」

隣から聞かれて、私は小さく息を吐く。

「まあ……多少は」

藤澤「多少?」

「結構」

藤澤「だろうな。俺も一応、中入るよ」

「え」

藤澤「抑え係」

「暴れないです」

藤澤「念のため」

「子どもじゃないんですけど」

藤澤「昨日25歳用のトントンされた人が何か言ってる」

「それは関係ないでしょ」

思わず笑ってしまった。

少しだけ緊張が抜ける。

藤澤「まあ、邪魔にならないところにいるから」

今度は少し真面目な声で言われた。

「……はい」

本当は。

いてくれることに、少しほっとしていた。

中に入り、改めて名前を確認される。

説明を受けながら、検査の準備が進んでいく。

こうなったらもう、腹を括るしかない。

むしろ。

――早くやってほしい。

待っている時間の方が嫌だった。

検査を受けると決めた。

ここまで来た。

だったら早く始めて、早くこの緊張から解放されたい。

看護師「じゃあ、説明された通りに検査の体勢に整えましょう」

「はい」

返事をして、言われた通りに身体を動かす。

思っていたより、すんなりできた。

藤澤先生が少し意外そうに私を見る。

「何ですか」

藤澤「いや。もっと往生際悪いかと思ってた」

「私もです」

藤澤「自分で言うんだ」

「もう早く終わらせたいです」

藤澤「なるほど」

それを聞いた藤澤先生が小さく笑った。

赤井先生に声をかけられ、処置が始まる。

消毒の冷たさ。

触れられる感覚。

何をしているのか、大体分かってしまう。

赤井「まずは麻酔ね。ゆっくり深呼吸して、危ないから絶対身体は動かさないで。」

「はい」

局所麻酔の針が刺さる。

「……っ」

思わず身体に力が入った。

痛い。

でも、耐えられないほどじゃない。

深呼吸して、力を抜く。

しばらくして、麻酔が効いたことを確認される。

検査が進んでいく。

知識として知っていたことが、自分の身体で一つずつ現実になっていく。

――患者さん、これ受けてたんだ。

今まで仕事で関わった患者さんの顔が、ふと浮かんだ。

検査前に不安そうにしていた人。

終わったあと、「痛かった」と苦笑いしていた人。

その時の私は、

『お疲れさまでした』

『大変でしたね』

そう声をかけていた。

もちろん、痛い検査だということは知っていた。

分かっているつもりだった。

でも。

知っているのと、体験するのは全然違う。

赤井「じゃあ、骨髄液引くよ。ちょっと響くからね」

来る。

分かっていても、身体が強張る。

次の瞬間。

「――っ……!」

思っていたものとは違う、身体の奥に響くような痛み。

反射的に目をぎゅっと閉じた。

逃げたくても、今は動けない。

「……っ、いた……」

声が漏れた。

いつのまにか近くにいた藤澤先生が私の手を握っていた。

藤澤「もう少し」

近くから声がする。

藤澤「動くなよ」

「……分かって、ます……」

藤澤「うん」

握られた手に、思わず力を込める。

普段なら痛くても、きっと平気な顔をした。

大丈夫です、と言った。

でも今はその手を握り返したまま、痛みが過ぎるのを待った。

赤井「はい、終わったよ」

その言葉と同時に、身体から一気に力が抜けた。

「……終わった?」

藤澤「終わった」

「……よかったぁ……」

心の底から声が出た。

隣で藤澤先生が笑っている。

藤澤「急に素直だな」

「今は何言われてもいいです……」

藤澤「相当だな」

「これ受けてきた患者さん、すごい……」

ぽつりと呟いた。

藤澤「ん?」

「みんなこんなに痛いの受けてたんですね」

今まで何度も見てきたはずなのに。

今日初めて、本当の意味で知った気がした。

「想像してたのと違いました。なんか……もっと、奥にくる感じで」

藤澤「うん」

「受けてきた患者さんの話を聞いて知ってたはずなんですけどね」

看護師として。

痛みを伴う検査だということも。患者さんが不安になることも。

全部知識としては知っていた。

「でも、実際に受けないと分からないですね」

藤澤先生は少しだけ考えてから言った。

藤澤「それ、看護師として結構すごい経験だと思うけど」

「……え?」

藤澤「骨髄検査の痛みを実際に知ってる看護師なんて、そんなに多くないだろ」

思ってもいなかった言葉だった。

藤澤「これから患者と向き合う時、今日のこと思い出すんじゃない?」

「……」

藤澤「検査前に怖がってる患者がいたら、何が怖いのか今までより分かるだろうし。終わった患者に『お疲れさまでした』って言う時も、今までとはちょっと違うかもしれない」

私は黙って藤澤先生を見る。

先生は何でもないことのように続けた。

藤澤「今日の経験は、お前にしか持てない看護師としての強みになると思うよ」

――看護師として。

その言葉が、胸に引っかかった。

先生の中では。

私は、この先も看護師だった。

病名がつくかもしれない。

治療が必要になるかもしれない。

仕事から離れることだってあるかもしれない。

私はずっと。

白血病だったら、もう看護師として働けないんじゃないか。

そんなところまで勝手に考えていたのに。

藤澤先生は。

その先で、私がまた患者さんの前に立っていることを当たり前みたいに話している。

「……先生」

藤澤「ん?」

「私、また看護師する前提なんですね」

藤澤先生が一瞬きょとんとした。

藤澤「するだろ?」

あまりにも普通に返ってきた。

「……まだ何も分かってないのに」

藤澤「だからだよ」

「え?」

藤澤「まだ何も分かってないのに、勝手に辞めるところまで決めるな」

言葉が止まる。

藤澤「病名もまだついてない。治療が必要なのかも、その先どうなるのかも、まだ分からない」

藤澤先生は少しだけ肩をすくめた。

藤澤「なら、また看護師やってるお前を想像したっていいだろ」

胸の奥が、じわっと熱くなった。

大丈夫だと言われたわけじゃない。

絶対戻れると約束されたわけでもない。

ただ。

私が自分で消しかけていた未来を。

この人はまだ、普通にそこに置いてくれている。

「……ずるいですね」

藤澤「何が?」

「そういうこと普通に言うところ」

藤澤「褒めてる?」

「どうでしょう」

少し笑う。

さっきまで胸を覆っていた恐怖が、なくなったわけじゃない。

結果は怖い。

今だって、できることなら知りたくない。

それでも。

その結果のさらに先に。

もう一度、看護師として働いている自分を。

ほんの少しだけ。

想像してみてもいいのかもしれないと思った。