ページのすみで揺れていたもの


赤井「じゃあ、検査できるように確認してくるね」

そう言って席を立った。

扉が閉まる。

急に静かになった診察室で、私は小さく息を吐いた。

「……決めちゃった」

藤澤「決めたな」

「もうちょっと悩んでもよかったかも」

藤澤「一週間以上悩んだだろ」

「そうでした」

むしろ十分すぎるほど悩んだ。

それでも、いざ受けると決めたら妙な感じがする。

怖い。

でも、今すぐ何かが分かるわけじゃない。

今日は検査を受けるだけ。

そう考えると、まだ大丈夫な気がした。

「先生」

藤澤「ん?」

「結果って、すぐには出ないですよね」

藤澤「顕微鏡検査とか色々確認するから今日すぐ分かるわけじゃないよ」

「……ですよね」

藤澤「それがどうかした?」

「いや」

少しだけ笑う。

「今日じゃないなら、まだいいかなって」

藤澤先生が私を見る。

藤澤「結果聞くのが怖い?」

少し迷ってから、頷いた。

「……検査は別にいいんです」

痛いのは嫌だけど。

何をされるのかも、大体分かっている。

「でも結果が出たら、本当に病名がつくかもしれないじゃないですか」

藤澤「うん」

「今はまだ、“かもしれない”でいられるから」

口にすると、自分が何を怖がっていたのかが、少しだけはっきりした。

「白血病じゃなかったら、それで終わるけど」

「……」

「白血病だったら、そこから全部変わる気がして」

仕事も。

生活も。

これからの予定も。

何もかも。

藤澤「そうだな」

その返事に、少し驚く。

大丈夫だとか。

考えすぎだとか。

そう言われると思っていた。

藤澤「病名がついたら、変わることはあると思う」

淡々とした声だった。

藤澤「でも」

藤澤先生が私を見る。

藤澤「結果が出る前から、その先の全部まで今日決めなくていいだろ」

「……」

藤澤「今日は検査を受ける。それだけでいい。」

「……じゃあ今日は、それだけ頑張ります」

藤澤「うん」

「結果聞く日のことは、結果聞く日の私に任せます」

藤澤「先送りしたな」

「言い方」

藤澤「でも、それでいいんじゃない?」

少し笑われる。

私もつられて笑った。

その時、診察室の扉が開いた。

赤井「お待たせ」

赤井先生が戻ってくる。

反射的に背筋が伸びた。

赤井「確認できたから、今日このまま検査しよう」

「……はい」

来た。

分かっていたのに、心臓が一度大きく鳴る。

赤井先生がこの後の流れを簡単に説明してくれる。

私は頷きながら聞いた。

内容は理解できる。

質問も、今のところ特にない。

説明が終わると、赤井先生が私を見る。

赤井「大丈夫そう?」

「はい」

答えてから、

「……多分」

付け足した。

赤井「多分で十分」

赤井先生が笑う。

赤井「じゃあ案内してもらうから、少し待ってて」

「分かりました」

再び扉が開く。

今度は本当に、検査へ向かう。

椅子から立ち上がる。

その瞬間、隣にいた藤澤先生も立った。

「……先生」

藤澤「ん?」

「どこまで来るんですか?」

藤澤「行けるとこまで」

「保護者みたい」

藤澤「誰のせいだろうね。こんなに大きい子供いないはずなんだけど」

「私ですね」

藤澤「分かってるならよろしい」

診察室を出る。

案内される後ろを歩きながら、病院の廊下を進んだ。

不思議だった。

前に逃げた時は、あんなに越えられなかったところなのに。

今は、自分の足で歩いている。

怖くないわけじゃない。

むしろ、この先に何があるのかを知っているからこそ、胸の奥はずっと落ち着かない。

それでも足は止まらなかった。

藤澤「須藤」

隣から小さく呼ばれる。

「はい?」

藤澤「ちゃんと歩けてるな」

「……歩くくらいできますよ」

藤澤「そういう意味じゃない」

一瞬、意味が分からなかった。

でも藤澤先生はそれ以上何も言わず、前を向いた。

少しして。

私にも、その意味が分かった。

「……そうですね」

今度は、小さく笑えた。

前は逃げた場所へ。

今日は、自分から向かっている。

たったそれだけ。

でも今の私にとっては大きな一歩だった。