ページのすみで揺れていたもの

病院に入り、受付で診察券と保険証、それから藤澤先生が用意してくれた紹介状を渡した。

受付「紹介状をお預かりしますね。待合室で少々お待ちください」

「はい」

言われた通り、待合室の椅子に座る。

藤澤先生も当然のように隣に腰を下ろした。

ここまで来てしまえば、もう逃げる場所なんてない。

――いや。

出口はすぐそこにあるけど。

ちらりと自動ドアを見る。

藤澤「帰らないよな?」

「……何も言ってないです」

藤澤「見てたから」

「出口くらい見ますよ」

藤澤「そうだな」

絶対信じてない。

それから少しして、受付から名前を呼ばれた。

受付「須藤さん、本日の診察の前に採血をお願いします。採血室へご案内しますね」

「……採血」

思わず復唱する。

隣から藤澤先生が立ち上がる気配がした。

藤澤「行くぞ」

「採血くらい一人で行けます」

藤澤「じゃあ行ってこい」

「……急に突き放しますね」

藤澤「どっちだよ」

小さく笑われながら、私は重たい腰を上げた。

採血室に入ると、名前と生年月日を確認され、採血用の椅子に座った。

腕を出して、駆血帯が巻かれる。

細い血管に針が刺さって、採血管に血液が流れていく。

普段なら何とも思わない光景。

むしろ仕事では見慣れている。

でも今日は、その血液から自分の身体の中で何が起きているのかを調べられる。

そう思うと、自然と目を逸らしていた。

看護師「はい、終わりました。しっかり押さえていてくださいね」

「ありがとうございます」

絆創膏の上から押さえながら、待合室へ戻る。

藤澤先生はさっきと同じ場所に座っていた。

私に気づくと、ちらっと腕を見る。

藤澤「終わった?」

「終わりました」

藤澤「気分悪くない?」

「大丈夫です」

藤澤「ならよし」

その隣に腰を下ろした。

あとは結果が出るまで待つだけ。

採血結果なんて、項目によってはそれほど時間がかからない。

分かっている。

分かっているけど――。

もう少しくらい、時間がかかってほしかった。

何となくスマホを開いて。

特に見たいものもないのに画面を眺めて。

閉じて。

また開いて。

そんなことを繰り返しているうちに、

「須藤愛実さん」

名前を呼ばれた。

「……え」

思わず時計を見る。

「早……」

隣で藤澤先生が立ち上がる。

藤澤「行くぞ」

「もうちょっとかかってもよくないですか」

藤澤「結果出たことに文句言うな」

「心の準備が」

藤澤「さっきからずっとしてただろ」

「できてないから言ってるんです」

藤澤「じゃあ、できてないまま行くぞ」

逃げ道がない。

私は渋々立ち上がった。

診察室の扉を開ける。

「失礼します」

赤井「どうぞ」

赤井先生はパソコンの画面を見ていた。

藤澤「須藤さん、久しぶり」

「……お久しぶりです」

藤澤「藤澤もそこ座って」

藤澤先生と一緒に入り、椅子に座る。

赤井先生は一度私の顔を見てから、

赤井「藤澤から聞いたんだけど昨日、39度台まで熱出たんだって?」

「はい」

赤井「今朝は?」

「37.4でした」

赤井「まだ少しだるい?」

「ちょっと身体が重いくらいです。動けないほどではないです」

赤井「そっか」

いくつか体調を確認しカルテに打ち込んでいく。

その横顔を見ているだけで、嫌な緊張が戻ってくる。

赤井「……でね」

赤井先生の声の調子が少し変わった。

赤井「今日の採血なんだけど」

私は無意識に膝の上で両手を握った。

赤井「白血球の数値、やっぱり高いね」

「……はい」

赤井「前にうちで採った時より、さらに上がってる」

画面に表示された結果を見せてもらう。

そこに並んでいるのは、仕事中なら見慣れた検査項目。

でも、その横にあるのは私の名前だった。

白血球の欄には、前回よりさらに高い数字が並んでいる。

「……上がってますね」

妙に冷静な声が出た。


赤井「うん。前回もかなり高かったけど、今回はそれ以上」

「……」

赤井「昨日熱が出てたから、その影響が全くないとは言えない。ただ、前回からの経過も含めて考えると――」

一度、言葉が切れた。

赤井「血液検査では、白血病の可能性が否定できない」

分かっていたはずの言葉だった。

それでも。

実際に自分に向けて言われると、胸の奥が冷たくなる。

「……そうですよね」

看護師としてなら、その意味は理解できる。

白血球の数値が高い。

だから白血病。

そんな単純な話じゃない。

でも、だからこそ。

血液検査だけでは、その可能性を消すこともできない。

赤井先生が続ける。

赤井「白血病の確定診断には、やっぱり骨髄検査が必要になる」

――骨髄検査。

その言葉を聞いた瞬間、膝の上で握った拳に力が入った。

前にも聞いた言葉。

そして、私が逃げたところ。

「……はい」

赤井先生は私の顔を少し見てから、

赤井「須藤さんなら、検査の流れもある程度は分かってるよね」

「……一応。救急なので、専門ってわけではないですけど」

赤井先生が頷く。

赤井「知ってることも多いと思うけど、一応説明はさせてね」

「はい」

赤井「それで、分からないことでも、不安なことでも、何か聞きたいことがあったら何でも聞いて」

「……分かりました」

分かっている。

どういう検査なのか。何が分かるか。

それでも、知っていることと。

自分が受けることは、全然違った。

赤井先生が検査について説明している間、私は黙って聞いていた。

時々頷いて。

必要なところだけ返事をして。

それが終わると、

赤井「ここまでで、何か聞いておきたいことある?」

そう聞かれた。

「……」

考えてみる。

検査について分からないことがあるわけじゃない。

本当に聞きたいのは、その先のことだった。

この検査を受けたら。

今までずっと曖昧にしてきたものに、名前がつくかもしれない。

「……もし」

声に出したところで、一度止まった。

赤井先生が待ってくれる。

「もし、白血病だったら……」

その先が、うまく出てこなかった。

何を聞きたいんだろう。

治るのか。

仕事に戻れるのか。

入院するのか。

どれくらい治療するのか。

聞きたいことはいくらでもあるはずなのに。

どれも聞いたら、本当に自分の話になってしまう気がした。

「……やっぱり、まだいいです」

結局、逃げた。

でも赤井先生は追及しなかった。

赤井「うん。それでもいいよ。いつでも聞いて。」

静かに頷く。

赤井「今の段階では、白血病の可能性が否定できない。だから骨髄を調べて、白血病かそうではないかはっきりさせる」

「……はい」

逃げるためじゃなく。

知るための検査。

頭では、そう理解できる。

それでも怖いものは怖かった。

小さく息を吐いた。

そして、隣を見る。

藤澤先生は何も言わずに座っていた。

目が合う。

『受けろ』とも。

『大丈夫』とも言わない。

ただ、私が答えるのを待っている。

昨日、自分で言った。

逃げ腰だけど。

ちょっと頑張ってみてもいいですか、と。

――まさか翌朝には、その言葉を試されるなんて思ってなかったけど。

「……先生」

赤井先生を見る。

赤井「はい」

「検査……お願いします」

言えた。

声は少し頼りなかったけれど。

それでも今度は、自分から。

赤井先生が頷いた。

赤井「分かった」

その一言を聞いた瞬間怖さが増した気がした。

――言っちゃった。

思わず隣を見る。

藤澤先生と目が合う。

先生は少しだけ口元を緩めた。

藤澤「一歩進んだな」

「……今、ちょっと後悔してます」

藤澤「早いな」

「撤回って――」

藤澤「できない」

「まだ最後まで言ってないです」

藤澤「言わせない」

思わず息が漏れる。

笑ったのか、ため息だったのか。

自分でも分からなかった。

でも。

逃げ腰なのは、相変わらず。

それでも今日は。

逃げる以外の選択を、自分で一つ選べた。