ページのすみで揺れていたもの

――着いてしまった。

エンジンが止まった車内は、不思議なくらい静かだった。

シートベルトは外した。

でも、それだけだった。

ドアに手を伸ばす気になれない。

目の前には病院。

ただそれだけなのに、胸の奥がざわざわする。

検査を受けるだけ。

まだ何も決まったわけじゃない。

分かっている。

分かっているのに。

「……」

隣を見る。

藤澤先生は何も言わない。

スマホを確認したり、車の時計を見たりしている。

急かされる気配はない。

だから余計に降りづらい。

数分くらい経っただろうか。

実際にはもっと短かったかもしれない。

藤澤「……行けそう?」

ようやく聞こえた声は、思ったより優しかった。

「……微妙です」

藤澤「正直でよろしい」

「帰りたいです」

藤澤「知ってる」

即答だった。

私は小さくため息を吐く。

「先生」

藤澤「ん?」

「今ならまだ帰れますよね」

藤澤「帰れるな」

予想外の返事だった。

思わず顔を上げる。

藤澤先生は前を向いたまま続けた。

藤澤「車は動くし、ガソリンも入ってる」

「じゃあ――」

藤澤「でも帰ったら、また同じように、“良くなったらぬか喜びして、すぐに体調が悪くなる”のを繰り返すんじゃないか?」

言葉が止まった。

藤澤「今日帰っても、明日帰っても、来週帰っても」

静かな声だった。

藤澤「結局、お前はまた一人で悩む」

図星だった。

それが嫌で。

苦しくて。

結局、高熱を出した日に助けを求めたのだから。

「……それは」

藤澤「分かってるんだろ?」

私は返事ができなかった。

返せない代わりに、視線だけが下を向く。

しばらく沈黙が落ちる。

責められているわけじゃない。

怒られているわけでもない。

だからこそ逃げ場がなかった。

藤澤「須藤」

名前を呼ばれる。

「はい」

藤澤「俺も怖いぞ」

思わず顔を上げた。

藤澤先生は少しだけ笑った。

藤澤「お前だけだと思うな」

「……先生も?」

藤澤「当たり前だろ」

その答えは意外だった。

藤澤「何もなかったら安心する」

藤澤先生は言う。

藤澤「何か見つかったら、それはそれで考えなきゃいけない」

窓の外へ視線を向けた。

藤澤「でも、知らないままの方が怖い」

その言葉には、医師としての重みがあった。

何度も患者に伝えてきた言葉なのだろう。

何度も悩みながら。

何度も向き合いながら。

「……」

私は病院を見上げた。

まだ怖い。

今だって帰りたい。

だけど。

「先生」

藤澤「ん?」

「もし私が逃げたらどうします?」

藤澤先生が少し考える。

藤澤「とりあえず追いかける」

「即答ですね」

藤澤「慣れてるからな」

「何がですか」

藤澤「目の前の手のかかる患者の行動に」

ひどい。

でも少し笑えた。

その笑いが、自分でも不思議だった。

藤澤先生がドアを開ける。

外の空気が流れ込んできた。

藤澤「ほら」

そう言って立ち上がる。

藤澤「逃げ腰でもいい」

私はその言葉に顔を上げた。

藤澤「一歩でいいから来い」

たったそれだけだった。

励ましでもない。

説教でもない。

でも、その言葉は不思議なくらい胸に残った。

逃げ腰でいい。

怖くてもいい。

完璧じゃなくていい。

それでも、一歩。

私は深く息を吸った。

そして。

ようやくドアに手を掛けた。

車の外へ足を下ろす。

病院の空気は、思ったより普通だった。

空は青いし。

人は行き来しているし。

世界は何も変わっていない。

変わるかもしれないのは、これからだ。

「……行きます」

藤澤「うん」

藤澤先生はそれ以上何も言わなかった。

ただ私の少し前を歩き始める。

私は小さく息を吐いて、その背中を追いかけた。