ページのすみで揺れていたもの

藤澤「じゃあ、今度こそ行こうか」

準備を終えてリビングに戻ると、藤澤先生がそう言った。

「……はい」

返事はした。

したけれど、玄関までの数歩が妙に遠い。

身体にはまだ薄く怠さが残っているし、それ以上に、このドアを開けたら本当に病院へ行くんだと思うと、どうしても足が重くなる。

靴を履くのにも、いつもより時間がかかった。

藤澤先生は何も言わない。

先に玄関を出て、私が鍵を閉めるのを待っていた。

「行きますか……」

藤澤「行きますよ」

「……ですよね」

小さく息を吐いて、歩き出す。

駐車場までなんて、ほんの少し。

普段なら何も考えずに歩ける距離なのに、今日は一歩一歩が遅かった。

まだ身体が本調子じゃないからなのか。

それとも、単純に行きたくないからなのか。

たぶん、両方。

藤澤先生は少し先を歩いていた。

けれど、何歩か進むたびにちらっと後ろを振り返る。

私が遅れていると、その分だけ歩幅が小さくなった。

「……先生、先行ってて大丈夫ですよ」

藤澤「別に急いでない。俺だけで病院行くわけにも行かないからな」

それだけ言って、また前を向く。

早く、とも。

大丈夫か、とも言わない。

ただ、私が歩く速さに合わせてくれる。

そのことが、ありがたかった。

ようやく駐車場に着くと、藤澤先生が車の鍵を開けた。

藤澤「乗れる?」

「それくらいは大丈夫です」

藤澤「はいはい」

助手席のドアを開けて、ゆっくり身体を滑り込ませる。

シートに背中を預けた瞬間、思わず息が漏れた。

藤澤「……疲れた?」

運転席に乗り込んだ藤澤先生が聞く。

「ちょっと」

藤澤「病院着くまで休んでろ」

「……寝てる間に通り過ぎたりしません?」

藤澤「しません」

「道間違えたり」

藤澤「しません」

「車が故障したり――」

藤澤「そんなに行きたくない?」

「…………ちょっとだけ」

藤澤「知ってる」

エンジンがかかる。

とうとう、車が動き出した。

窓の外を、見慣れた景色が流れていく。

病院までは近い。

それは分かっていた。

だからこそ、もう少し遠ければよかったのにと思う。

赤信号に引っかかるたび、少しだけほっとした。

――まだ着かない。

そう思うのに、青になれば当然また進み出す。

私はシートベルトの端を指で弄りながら、窓の外を眺めていた。

藤澤「……静かだな」

不意に藤澤先生が言った。

「そうですか?」

藤澤「さっきまであんなに時間稼ぎしてたのに」

「作戦全部失敗したので」

藤澤「残念だったな」

「ほんとに」

藤澤先生が小さく笑う。

私も少しだけ笑って、また窓の外へ視線を戻した。

何度も通った道だから、あとどのくらいで着くのかも分かってしまう。

次の交差点を曲がって。

もう一つ信号を越えたら――。

見えてくる。

「あ……」

思った瞬間。

建物が視界に入った。

「……早くないですか?」

藤澤「何が?」

「着くの」

藤澤「混んだりはしてないけど信号は引っかかったしこんなもんじゃない?」

時計を見る。

本当に、いつも通りだった。

むしろ藤澤先生が私に気を遣って、少しゆっくり走っていたくらいかもしれない。

それなのに。

嫌なことを待っている時間だけは、どうしてこんなに早く過ぎるんだろう。

車はそのまま病院の敷地へ入っていく。

さっきまで少し落ち着いていた心臓が、また速くなった。

逃げ腰だけど、頑張ってみる。

昨日は確かにそう言った。

――でも。

「……帰りたい」

思わず、小さく漏れた。

聞こえないくらいの声だったと思ったのに。

隣から、

藤澤「まだ車も停めてないぞ」

と返ってきた。

私は思わず藤澤先生を見る。

先生は前を向いたまま、駐車スペースを探していた。

「……聞こえてたんですか」

藤澤「聞こえた」

「独り言です」

藤澤「じゃあ聞かなかったことにしとく」

そう言って、車をゆっくり駐車スペースへ入れる。

エンジンが止まった。

急に静かになった車内で、私は目の前の病院を見上げる。

――着いてしまった。