ページのすみで揺れていたもの

額に触れる、ひんやりした感触で目が覚めた。

「……ん……」

重たい瞼を開けると、すぐ近くに藤澤先生の顔があった。

藤澤「悪い、起こしたな」

額に当てられていた手が離れていく。

まだぼんやりする頭で瞬きをして、それから昨夜のことを思い出した。

高熱が出て。

先生を呼んで。

病院へ行く話をして。

また、あの夢を見て――。

『また起きた時……いてくれますか?』

『いるよ』

本当に、いた。

そのことに、胸の奥が少しだけ緩んだ。

「……おはようございます」

藤澤「おはよう。気分は?」

「昨日よりは……いいかも」

身体を起こしてみる。

全身に薄く重さは残っているけれど、昨日みたいに身体中が熱を持っている感じはない。

藤澤「ふらつきは?」

「ないです」

藤澤「頭痛」

「ないです」

藤澤「吐き気」

「ないです」

藤澤「身体のだるさは?」

「ちょっとだけ」

答えながらベッドの端に座ると、藤澤先生が体温計を差し出した。

藤澤「はい」

「……自分で測れますよ」

藤澤「測るところまでは信用してる」

「測るところまで?」

藤澤「数字を読むところから信用してない」

昨日のことを言っている。

「……根に持ちますね」

藤澤「39.4を37.2って申告するやつの信用が一晩で回復すると思うな」

何も言い返せない。

仕方なく体温計を脇に挟んだ。

しばらくして電子音が鳴る。

表示された数字を見る。

――37.4℃。

「……37.4℃。」

藤澤「見せろ」

「今ちゃんと言いました」

藤澤「成長したな」

「子ども扱いしてません?」

藤澤「褒めてる」

藤澤先生は体温計を受け取って数字を確認すると、少しだけ表情を緩めた。

藤澤「まあ、昨日よりはだいぶいいな」

「ですね」

藤澤「腹減ってる?」

聞かれて、少し考える。

昨日はほとんど食べていない。

不思議と空腹感はあまりないけれど、少しなら食べられそうな気はした。

「……ちょっとなら」

藤澤「何か食えるものある?」

「食べれるものというか冷蔵庫に卵とか……ご飯も冷凍があるくらいで」

藤澤「じゃあ、お粥くらい作るか」

「え」

思わず顔を上げた。

「先生が?」

藤澤「他に誰がいるんだよ」

「料理できるんですか?」

藤澤「お前、俺を何だと思ってんの」

「お医者様です」

藤澤「間違ってないけど腹立つな」

藤澤先生が立ち上がる。

藤澤「鍋どこ?」

「あ、えっと……キッチンの下の棚右側です」

私も立とうとすると、

藤澤「お前はいい。座ってろ」

大人しくいう通りにする。

誰かが自分の家のキッチンに立っている。

それも藤澤先生が。

なんだか不思議な光景だった。

「……先生」

藤澤「んー?」

鍋に水を入れながら返事が返ってくる。

「本当に作れるんですか?」

藤澤「まだ疑ってんの?」

「だって前、ゼリーとスポドリだったじゃないですか」

藤澤「あれはお前んちのキッチン勝手に漁るわけにいかなかったからだろ」

「なるほど」

藤澤「あと寝てたし」

そう言いながら、冷凍ご飯を鍋に入れている。

しばらくすると、静かな部屋にことことと鍋の音が響き始めた。

私はベッドに座ったまま、その音を聞いていた。

昨夜はあんなに怖かったのに。

朝になって目を開けても先生がいて。

当たり前みたいに体調を聞かれて。

今はキッチンで朝ごはんを作っている。

その全部が、妙に安心した。

藤澤「味付け、塩でいい?」

「薄めで」

藤澤「病人らしい注文だな」

「病人なので」

藤澤「ようやく自覚した?」

「あ」

しまった。

藤澤先生が振り返る。

藤澤「今の聞いたからな」

「撤回します」

藤澤「遅い」

少し笑いながら、また鍋に向き直る。

やがて卵を溶く音がして、ふわっと優しい匂いが漂ってきた。

藤澤「できた」

テーブルに置かれたのは、湯気の立つたまご粥。

藤澤「熱いからゆっくり食えよ」

「……いただきます」

スプーンですくって、息を吹きかける。

ひと口。

「……おいしい」

藤澤「だろ」

「意外」

藤澤「一言余計なんだよ」

もうひと口食べる。

温かいものが喉を通って、お腹に落ちていく。

久しぶりにちゃんと食べている気がした。

藤澤先生は向かいに座って、私が食べるのを何となく見ている。

「……見られてると食べづらいです」

藤澤「ちゃんと食うか監視してる」

「信用ないなあ」

藤澤「積み重ねって大事だぞ」

「悪い方の?」

藤澤「お前の場合はな」

そう言いながらも、その声は少し笑っていた。

昨夜まで、病院へ行くことが怖くて仕方なかった。

今だって、怖くないわけじゃない。

それでも。

目を覚ました時に、約束通りそばにいてくれたこと。

温かいものを作ってくれる人がいること。

一人じゃないだけで、こんなにも違うんだと思った。

私はもう一口、たまご粥を口に運んだ。

――そしてまだ、この時の私は。

食べ終わったら病院へ行くという現実を、できるだけ考えないようにしていた。