ページのすみで揺れていたもの

ノートをそっと閉じて、私は手元に引き寄せたまま黙っていた。

藤澤先生はそれを見ても何も追及せず、
部屋の端にある椅子を引いて、静かに腰を下ろした。

藤澤「……今日、来たのはな。無理に検査を勧めに来たわけじゃない」

ぽつりと、低い声が落ちる。

藤澤「医者としてじゃなくて、ただ――気になったから」

私は黙ってうなずく。何か言葉を返したかったけど、喉が詰まって出てこなかった。

藤澤はしばらく考えるように沈黙したあと、視線をこちらに向けた。

藤澤「何が一番、怖い?」

その問いかけは、想像していたものよりずっと静かで、まっすぐだった。

ただ、“お前の気持ちが知りたい”って、それだけが伝わってくるような声だった。

私は目を伏せて、小さく答えた。

「……全部、怖いです」

藤澤「全部?」

「本当に病気だったら怖い。
 検査も治療も何もかも怖いんです。
 でも……もし、本当に病気だったとして……私、またちゃんと働けるのかなって。それが1番怖いです。」

声が震えるのを止められなかった。

「ずっと夢だったんです、看護師になるの。
 誰かの命を、守れる人になりたかった。
 でも、もしそれができなくなるなら……生きてる意味ってなんだろうって思ってしまうんです。」

沈黙が落ちた。

でも、それは気まずさではなく、
“この言葉を受け止めるための間”だった。

藤澤はほんのわずかに息を吸い込み、
まっすぐな声で答えた。

藤澤「……それ、お前だけじゃないよ」

私は目を上げた。

藤澤「俺も医者になったときは、ちゃんと全部救えるつもりだった。
 でも、現実は違った。思ったよりも救えない。
 そのたびに、自分の意味を見失いそうになった。
 それでも――生きてたら、また誰かに触れる機会がある。
 それが、たぶん“生きてる意味”の一つになるんだと思う」

目の奥が熱くなった。

藤澤先生は、それ以上は何も言わなかった。
押しつけず、励まさず、ただそこにいてくれた。

その姿に続けて自分の気持ちを言いたくなった。

「……先生」

静かに呼びかけると、藤澤は黙ってこちらを見た。

藤澤「私……これまで、何人もの患者さんに“生きてほしい”って言ってきたんです。
 どんなに辛そうでも、希望が薄くても、それでも“頑張ってください”って……
 それが、正しいって思ってました。
 でも、今こうして自分が“言われる側”になってみて、ふと思ったんです」

言葉が少しずつ詰まる。

「……もしかしたら私、あの人たちの“逃げたい”って気持ち、ちゃんと見てなかったんじゃないかって。
 “生きて”って言葉で、無理に縛ってたんじゃないかって……」

それは、誰にも言ったことのない心の奥だった。
“救いたい”と信じていたことが、
実は“押しつけ”になっていたかもしれないという怖さ。

「自分の“頑張ってほしい”って気持ちを、勝手に正義にしてたのかもって思ったら……
 今、怖くて何もできない自分のことが、余計に許せなくて」

藤澤は目をそらさず、ただ真っ直ぐに聞いてくれていた。

しばらく沈黙が続いたあと、彼は小さく息を吐いた。

藤澤「……お前が言ったこと、俺も何度も思ったよ」

「え……」

藤澤「治療の選択を迫られた患者に、“頑張りましょう”って言ったあと、
 その人が苦しそうな顔してるのに気づいて、
 “今の、余計だったかな”って後悔する。
 それでも、言わなきゃ後悔すると思って……
 言うしかなかった。
 ……そんな場面、山ほどある」

彼は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。

藤澤「でも、それってたぶん――“間違い”じゃないんだと思う。
 誰かを救いたいって思うのは、“押しつけ”じゃなくて、“願い”だ。
 たとえ相手がそれを受け取れなかったとしても、
 その願いは、本気だったろ?」

私は、こくりと小さく頷いた。

藤澤「だったら、願ってもいいんじゃないかな。」

一拍置いて真剣な目で
藤澤「俺もお前を救いたいって思ってるよ。これは俺の願いだ。
それも押し付けに感じるか?」

静かなその声が、少しずつ心に染み込んでいった。

「......押し付けに思わないです」