ページのすみで揺れていたもの

『逃げたままにするな』

電話越しに聞いた藤澤先生の言葉が、まだ耳に残っている。

通話を切ってから、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。

ベンチの上には夜露が残っていて、スニーカーのつま先がほんのり濡れている。

空はすっかり朝の色で、病院の窓が太陽の光を反射していた。
だけど私は、その建物の中に戻る気には、なれなかった。

(……検査を受ければ、何かが決まる)

それは分かっている。
藤澤先生の言ってることは、理屈では正しい。
でも、今この瞬間、理屈よりも胸を締めつけているのは――恐怖だった。

もし本当に白血病だったら。
もし、すぐに治療が始まったら。
仕事は?日常は?未来は?
そして――“私”は?

(……でも)

私はもう、一度“死んでたかもしれない命”だった。

5年前、トンネルの中で。

実は私には最初のページで書けなかったことがある。
トリアージを始めて2人目に行く途中、ちょうど頭上のトンネルが崩壊し、痛みが来ると身を構えたが、誰かに突き飛ばされ、痛みは擦った膝と手のひらくらいだった。

自分を突き飛ばしたであろうその人は瓦礫に埋もれ即死だったようで、近づいて意識や呼吸、脈を確認するがなかった。

この事実は私しか知らない。なのにあの日記にも書けなかった。自分が勇敢にトリアージしたことだけ書いて。

バチが当たったのだろうか。


あれから5年。

看護師になって、命と向き合い、何もできなかった自分から、少しは成長できた。
(もう、十分じゃない?)

ふと、そんな声が心の奥から聞こえた。

“5年、生きた。
 自分のためにも、誰かのためにも、精一杯だった。
 ここで終わっても、きっと悔いは少ない。”

その考えは、一瞬だけ温かくて、そして怖いほど静かだった。

でも、もう一つ、違う声もあった。

“……まだ、終わらなくていいんじゃない?”

朝の風が、どこか優しく頬を撫でた。

私の心はまだ揺れていた。
でもその揺れは、“考える余地がある”という証拠でもあった。