ページのすみで揺れていたもの

その日は、夜勤からの申し送りが終わり夜間の患者の情報を電子カルテで見ていた時、無線が入った。

「50代男性。胸痛と冷汗、息苦しさあり。既往に狭心症あり。自宅でニトロ舌下錠を使用するも効果なく救急要請。意識清明。医師同乗で搬送中」

緊張が一瞬で走る。
ニトロが効かないとなれば――急性冠症候群、心筋梗塞といった可能性あり。

処置室に入りながら、私たちは手分けして準備を始める。
酸素、12誘導心電図、点滴ルート、採血、バイタルチェック。
加えて、抗血小板薬の準備と心カテ室への連絡体制――

救急外来の流れは、もう頭に染み込んでいる。

そして、救急車のサイレンとともに、搬送ストレッチャーが運び込まれてきた。
そのすぐ脇には、白衣の裾を揺らして歩く一人の医師の姿。

「血圧146/84、脈拍96、ルームエアーでSpO2 98%。ST変化あり。
 心電図は初期変化程度、ただし狭心症の既往あり。
 胸痛スケール6。ニトロ無効、もろもろ検査はするがカテ室にも連絡を。
 抗血小板薬、アスピリンとクロピドグレル、今から指示出す」

その声に、胸の奥が一瞬ざわついた。

私は無意識に顔を向ける。
鋭く冷静な目つき。30代前半、落ち着いた指示。
白衣の左胸に、ネームタグが光っていた。

藤澤 海

けれど、彼はこちらを一瞥もせず、患者に声をかけながら淡々と動いていた。

(……どこかで……)

頭の片隅にある記憶と、目の前の現実が、まだ繋がらない。
けれど名前と声が、ノートの中の一頁を揺さぶってくる。

(今は目の前の患者さんに集中!)

なんとか処置を終え、ICUへ申し送りをして落ち着いた。

彼は処置が一段落すると、ナースステーションのボードを一瞥して呟いた。

藤澤「この病院、けっこう人多いんだな。救急科、名前覚えるのに時間かかりそうだ」

「4月から配属された先生なんですよね?」
近くの看護師が声をかけた。

藤澤「うん。救命センターから異動。藤澤っていいます」

その一言に、私は咄嗟にモニターの表示を直すふりをして俯いた。

心臓が、なんとも言えない速さで脈打っていた。

でも――まだ確信は持てない。
あのトンネルの中で、名前もろくに聞けず、背中しか覚えていないあの人と、
目の前のこの医師が、同一人物だとは言い切れなかった。

「……よろしくお願いします」

ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど冷静だった。

でも、内側では――確かに、何かが静かに動き始めていた。