毎年この季節になると、思い出すことがある。黒板を消した後のチョークの匂いと、夕方の眩しかったあの教室、そして黒板消しの感触を。
あれは、九月なのにまだ暑さが厳しかった頃だろうか。
窓の外にはまだ緑が残っていて、夏休みも明けてだいぶ二学期にもなれた頃で、学校は文化祭の準備も進んでいる。周りは盛り上がっているけれど、正直楽しみではない。私は昔から人見知りで人と関わることも苦手でこういうみんなで協力しながら物事をすすめることが嫌いだ。だから最近の学校は少し憂鬱だ。でも、こうして学校に来られているのは心密かに想っている人がいるからだ。私なんて彼には似合わないし不釣り合いで手の届かない存在だということは痛いほどわかっている。でも、、心の奥で想っている分なら、、。
好きな理由なんて聞かれてもうまく言葉にはできない。そもそも聞かれるわけなんてないけれど。今日も彼を席から眺めていると突然、目が合った。それだけなのに心臓が張り裂けそうなほど鼓動が速まる。顔も今にも火傷しそうなほど熱い。

そして、彼はそんな私を見て微笑んだような気がした。

授業も終わり、放課後、特にすることもない私は少しだけ自分の机で勉強をしてから帰ることにしている。大勢の人がいるような廊下を避けるためだ。今日も人気がなくなった頃に荷物をまとめて帰ろうとした時、カチッという音と同時に教室の明かりが消えた。一瞬驚いたが電気のスイッチを押した犯人を見てさらに驚いた。そう、そこには私の好きな彼が立っていた。
文化祭の準備なのだろうか。


「ごめん、いたのみてなかった。」

「だ、だい、大丈、夫。、」


大丈夫すらもはっきりと口に出せない自分に嫌気がする。


「何してたの?」


頭が真っ白な状態で聞かれたので一瞬戸惑ったが、すぐに答える。


「勉強、してた、」

「ふーん」


しばらく沈黙が流れた。
でも彼はまだそこにいる。
私にはこんな空気が耐えられなくて黒板を見た。まだ消されてない。私は席を立ち、今にも崩れそうな脚でそこに向かった。黒板消しを持ち、黒板の文字を消していく。
それを見てなのか、彼が私の左にあるもう一つの黒板消しをもって黒板の文字を私と同じように消し始めた。


「手伝うよ」


たったそれだけなのに、心が満たされるほど嬉
しかった。


「あ、ありがと」


ちゃんとお礼はしておこう。
私は勇気を出して言った。
黒板が綺麗になったので黒板消しを置く。彼もそれを真似るように置いた。


「優しいよね。〇〇さんは」


急に褒められたと同時に名前を呼ばれて焦る。しかし私はすぐにこたえた。


「そんなこと、ないよ、〇〇、、くんの方が優しいし、私なんて、人と喋れないし、良いとこないし、」


私も彼の名前を呼んでしまったという恥ずかしさで途中から早口になってしまった。
このままでは自己否定で終わってしまうので付け足す。


「〇〇、くんのほうがよっぽどすごいよ、いつも人前に立って、完璧で、ほんと、すごいよ、だからわたしなんて」

「そんなことないよ」


彼が急に話を遮って私の目を見た。思わず逸らしたくなってしまう。


「チョークってさ、黒板消しがないと、次書くことができないからダメなんだよね」


なんか急に話が始まったので黙って彼を見て聞く。


「逆に黒板消しは、チョークで黒板が汚されないと使い道がない」


彼は一呼吸置いて言った。


「要は、人間関係とおんなじってことっ!人と関わるのだって人前に立ったりなんかのリーダーやったりするのだって、どっちかが欠けてちゃ絶対にダメなんだよ。だから俺はすごくないよ、みんなすごいんだ。お互いがお互いにすごいんだ。」


その言葉を聞いた時、自分の中の曇り空が少しだけ晴れたような気がした。
そうか、今まで一方的に考えすぎていたんだ。私なんか必要なくって、誰からも大切にされてないんだって。
でも彼の言葉を聞いて思った。どちらか一方が完璧だったとしても、人間関係は成り立たない。お互いが寄り添って初めて成立するもの。
どうして今までそんな単純なことに気が付かなかったのだろう。私だって誰かの役に立てたりしているのかもしれない。誰かの支えになっているのかもしれない。そう思っただけで少し心が軽くなったような感覚になった。
まだ少しだけ暑い九月の夕方の教室で、窓から差し込む西陽が逆光となって彼を照らす。その姿は眩しくてよく見えないけれど、彼は笑っていた気がした。まだ蕾の多い金木犀のほのかな匂いと黒板を消したあとのチョークの匂いに背中を押されながら、私は彼に笑顔を向けてさよならと言った。