「あ、当たり前です。西澤さんはこういう場に慣れているでしょうけど、私は――」
「ストップ」
伊織の人差し指が、すっと唇に当てられる。
「ここでは君は俺の婚約者だ。『西澤さん』は困る。俺も名前で呼ぶから、君もそうしてほしい」
「な、名前……」
これまで男性と付き合った経験のない千鶴は、年上の男性を名前で呼ぶことすら慣れていない。
突然呼び方を変える照れくささに顔が熱くなるが、今日の目的を考えると躊躇している場合ではない。伊織は女癖の悪いエリックから千鶴を守るために、婚約者の振りという茶番に付き合ってくれているのだ。
千鶴は意を決して顔を上げ、少しでも彼の婚約者らしく見えるように微笑む。
「では、伊織さん、とお呼びしますね」
顔は赤らんでしまったが、彼の提案通りに呼んだつもりなのに、なぜか伊織は顔を覆って俯いてしまった。
「……ここで上目遣いは反則だと思う」
「え?」
「いや、なんでもないよ。じゃあ行こうか、千鶴」



