総体が終わった週明け。
ガラガラだった教室の席は全て埋まり、短縮されていた時間割も六時間目まで組まれるようになった。いつも通りの日常が戻ってきたことを実感する。
「えー、運動部のみんな、総体お疲れ様でした。バスケ部はあと一歩のところで残念ながら優勝を逃してしまったが、先生は最後まで本当によく頑張ったと思う」
朝のショートホームルームの時間で、担任の先生が運動部へ労いの言葉を掛ける。
特にバスケ部の決勝敗退に関しては先生も気にしていたようで、惜しがりつつも健闘を讃えるように言った。
バスケ部、というところでチラリと水嶋君の方を見る。
先生の話を聞くその顔に、勝利を逃した悔しさや悲しみ、あるいは喪失感のような感情は見受けられなかった。
ただ、いつもと同じ感情の起伏の少ない表情と静かで真っ直ぐな眼差しを前に向けているだけ。
そんな彼を見て、ふと決勝戦終わりに見せた、あの表情を思い出す。
感情が溢れ出しそうな、脆く、けれど強い意志を示した表情だった。
あんな表情を見たのは初めてだったから凄く印象に残っているが、今は通常運転に戻ったみたいだ。
私は目線を教壇に戻し、担任の話の続きに意識を向けた。
翌日の朝。
この日は日直当番のため、いつもより早く家を出た。
学校に着くと、案の定というか人の気配が全くというほどなかった。
運動部が朝練している姿も見当たらない。多分だけれど、総体も終わったということでちょっとした休息期間が設けられているのだろう。
辺りはしんと静まり返っていて、空が明るくなければ少し怖いくらいだ。
それにしても暑い。まだ太陽が昇り始めてからそんなに時間は経っていないというのに、既に肌がじわっと汗ばんできている。
昔は夏でも朝方ならもう少し涼しく過ごせたはずなのだけれど。
なんてことを考えながら歩いていると、体育館の方からバタンッと何かが倒れるような音が聞こえてきた。
「なんだろう?」
気になって入り口の扉を開けると、床に投げ出された足が目に入る。
続いて、仰向けで倒れている男子の全体の姿が飛び込んできた。
「きゃあぁぁっ! だだだ、大丈夫ですか!?」
私は悲鳴を上げて、すぐさまその人の元へ駆け寄って声を掛けた。
近くで見ると、その人は前に姉崎さん達と揉めていた上級生だった。
彼はゼーゼーと浅い呼吸を繰り返していて、尋常じゃない量の汗をかいている。
「はあ、はあ……だい、じょうぶ、だ……」
幸い意思疎通は出来るようで、私の呼び掛けに息を切らしながらも答えてくれた。
それでも凄く苦しそうで話すのもやっとといった感じだ。
保健の先生を呼ぶ? いや、出勤されているか分からないし、その間この人を一人にするのは心配だ。
どうしよう……あ、そうだ! 私はリュックから水筒を取り出す。
確か熱中症になった時は、体を冷やすために水を掛けるといいって聞いたことがある。
聞き齧った程度の知識を思い出しながら水筒の蓋を回して、中身の水を全て彼にぶっかけた。
「どわっ!? なんだぁ!?」
「わぁっ!」
水を掛けた途端、彼の上体がガバッと勢い良く起き上がったものだから驚いた。
さっきまであんなにぐったりとしていたのに、急にこんなに動けるものなの? もしかして熱中症ではなかったのかな?
そういった疑問が頭に浮かぶが、自力で体を起こすことが出来るのなら症状はそこまで重いものではないのだろう、という安心が芽生えてホッと息を吐く。
でも、念のため確認はしておこう。
「あの、頭とか打ってないですか?」
先程聞いた倒れる音も結構大きかったし、その勢いで頭を打っていたら大変だ。ただでさえデリケートな部分だから、尚のこと心配である。
「あ? 別に打ってねー……け、ど」
私の問いに上級生は答えようとするが、私と目が合った途端、言葉が途切れてしまう。
そして、ボッと火が出たかのように顔を真っ赤にし出した。
「えぇっ!?」
シュ〜ッと茹でたこのようになった上級生を前に、安心しかけていた心は再び焦り始めた。
やっぱり熱中症なんじゃないの……!?
***
日焼けした喉仏が上下に忙しなく動いている。
それに合わせて握られたペットボトルの中身が物凄い勢いで減っていき、あっという間に全てなくなってしまった。
「……ぷはぁっ! 生き返ったぜ!」
同時に、飲み口から口を離した上級生がそう言った。
五百ミリリットルもあったスポーツドリンクがものの数秒で飲み干されてしまったことに、隣で見ていた私はその豪快さに目を奪われるが、同時に冷たい飲み物を一気飲みすることで内臓に負担がかからないだろうかと心配になる。
遡ること数分前。 突然顔を真っ赤にし出した彼に酷く驚いた私は、慌てて近くの自販機でスポーツドリンクを買って渡した。
そしたら凄まじい勢いで飲み干されて、今に至る。
飲み終えた上級生は、私の視線に気付くとニカッと笑いながら空になったペットボトルを見せた。
「スポドリ、サンキューな! ごっそさん!」
青のラベルを伝う水滴がキラリと光り、白い歯が眩しく映る。
「いえ、気にしないでください。それより、そんなに一気に飲んで体は大丈夫ですか? さっきまで倒れてましたよね?」
私が聞くと、上級生は「あー……」と少しバツが悪そうな顔をしながらも答えてくれた。
「自主練してただけなんだけどよ、ちーっとばかし夢中になり過ぎてたみてーだわ。流石に疲れたから休憩しようと寝転がってたんだよ」
「そうだったんですね」
合点がいった。だからあんなぐったりした大の字から急に起き上がれたり、冷えたスポドリを一気飲み出来るわけだ。
「私、てっきり熱中症で倒れているのかと思って、慌てて水なんて掛けちゃいました。すみません……」
「謝るこたぁねーよ。まあ、確かに驚いたけどよ、暑かったら寧ろ有り難かったわ」
上級生はカラッとした笑顔でそう言った。
この人、見た目はヤンキーっぽくて口調も乱暴だけど、話してみると見た目ほど怖い人ではないみたいだ。
「でも、練習のやり過ぎには気を付けて下さいね? 私、本当にびっくりしたんですから」
「お、おう。ワリィ……」
「それにしても、総体も終わったばかりなのに自主練なんてストイックですね。今って運動部はどこも休息期間なのに」
そうでなくても大会が終わった後は気が緩んでも仕方がないというのに、自主的に早起きして暑い中体育館で一人ボールと向き合っていただなんて、ストイックという他ない。
私なんて、テストが終わって暫くは好きなことして過ごすというのに。
だから純粋に凄いなと思い言ったのだが、途端に上級生は表情に影を落とした。
「休んでなんていられねーよ。もっと強くなりてーし……そもそも、俺が足を引っ張らなければあの試合だって……」
そう呟いた彼はペットボトルを強く握りしめた。
最後の方は声が小さくてよく聞き取れなかったけれど、表情や声色から察するに何か思い詰めているように見える。
どうしたのだろうと心配になるが、次の瞬間、彼はすぐに元の調子に戻って「そういや」と思い出したかのように聞いてきた。
「お前、初日に応援来てたよな?」
「はい。友達から観に行こうって誘われて」
「……友達って、あの巻き毛の奴か?」
「姉崎さんのことですか?」
あの場で巻き毛といえば姉崎さんしか思い浮かばない。
長い髪をウェーブ巻きにしていて、それをハーフツインに結っているのが彼女のいつものヘアスタイルだ。
確認すると上級生は「多分それ」と返す。名前は知らなかったみたい。 私は首を横に振った。
「いいえ。私の友達は一緒にいたボブの子です。千夏ちゃんっていうんですけど」
「ボブ? あー、言われてみりゃもう一人いたような……」
「千夏ちゃん以外の人達とはあの場で偶然会っただけで、一緒に行く約束はしてないんです」
「そうだったんか」
上級生は腑に落ちたように言う。
「でも、そうだよな。お前みたいなかわ……じゃなくて、まともそうな奴があいつらと友達ってのは考えにくいわ。あの時もお前は俺に謝ってきたし」
「騒がしくしちゃってたわけですし、謝罪は当然かと」
「それ、あの連中にも聞かせてやりたいぜ……」
上級生は恨みがましく呟いた。
普段よっぽど姉崎さん達に苦労させられているんだろうなと察して、労しい気持ちになる。
その時、私はふと本来の目的を思い出して「あ!」と声を上げた。
「そうだった! 私、日直の仕事があるのでもう行きますね? それじゃあ」
私は立ち上がり、上級生にそう言ってその場を後にするが、その際に「なあ!」と呼び止められる。
「はい?」
「俺、二年の猪上崋山ってんだけど、お前はなんつーの?」
そういえば、まだお互い名前も知らなかったなぁ。
私は上級生改め猪上先輩に向き直った。
「小岩井美菜子です。一年です」
それだけ言って、私は今度こそ昇降口に向かった。
ガラガラだった教室の席は全て埋まり、短縮されていた時間割も六時間目まで組まれるようになった。いつも通りの日常が戻ってきたことを実感する。
「えー、運動部のみんな、総体お疲れ様でした。バスケ部はあと一歩のところで残念ながら優勝を逃してしまったが、先生は最後まで本当によく頑張ったと思う」
朝のショートホームルームの時間で、担任の先生が運動部へ労いの言葉を掛ける。
特にバスケ部の決勝敗退に関しては先生も気にしていたようで、惜しがりつつも健闘を讃えるように言った。
バスケ部、というところでチラリと水嶋君の方を見る。
先生の話を聞くその顔に、勝利を逃した悔しさや悲しみ、あるいは喪失感のような感情は見受けられなかった。
ただ、いつもと同じ感情の起伏の少ない表情と静かで真っ直ぐな眼差しを前に向けているだけ。
そんな彼を見て、ふと決勝戦終わりに見せた、あの表情を思い出す。
感情が溢れ出しそうな、脆く、けれど強い意志を示した表情だった。
あんな表情を見たのは初めてだったから凄く印象に残っているが、今は通常運転に戻ったみたいだ。
私は目線を教壇に戻し、担任の話の続きに意識を向けた。
翌日の朝。
この日は日直当番のため、いつもより早く家を出た。
学校に着くと、案の定というか人の気配が全くというほどなかった。
運動部が朝練している姿も見当たらない。多分だけれど、総体も終わったということでちょっとした休息期間が設けられているのだろう。
辺りはしんと静まり返っていて、空が明るくなければ少し怖いくらいだ。
それにしても暑い。まだ太陽が昇り始めてからそんなに時間は経っていないというのに、既に肌がじわっと汗ばんできている。
昔は夏でも朝方ならもう少し涼しく過ごせたはずなのだけれど。
なんてことを考えながら歩いていると、体育館の方からバタンッと何かが倒れるような音が聞こえてきた。
「なんだろう?」
気になって入り口の扉を開けると、床に投げ出された足が目に入る。
続いて、仰向けで倒れている男子の全体の姿が飛び込んできた。
「きゃあぁぁっ! だだだ、大丈夫ですか!?」
私は悲鳴を上げて、すぐさまその人の元へ駆け寄って声を掛けた。
近くで見ると、その人は前に姉崎さん達と揉めていた上級生だった。
彼はゼーゼーと浅い呼吸を繰り返していて、尋常じゃない量の汗をかいている。
「はあ、はあ……だい、じょうぶ、だ……」
幸い意思疎通は出来るようで、私の呼び掛けに息を切らしながらも答えてくれた。
それでも凄く苦しそうで話すのもやっとといった感じだ。
保健の先生を呼ぶ? いや、出勤されているか分からないし、その間この人を一人にするのは心配だ。
どうしよう……あ、そうだ! 私はリュックから水筒を取り出す。
確か熱中症になった時は、体を冷やすために水を掛けるといいって聞いたことがある。
聞き齧った程度の知識を思い出しながら水筒の蓋を回して、中身の水を全て彼にぶっかけた。
「どわっ!? なんだぁ!?」
「わぁっ!」
水を掛けた途端、彼の上体がガバッと勢い良く起き上がったものだから驚いた。
さっきまであんなにぐったりとしていたのに、急にこんなに動けるものなの? もしかして熱中症ではなかったのかな?
そういった疑問が頭に浮かぶが、自力で体を起こすことが出来るのなら症状はそこまで重いものではないのだろう、という安心が芽生えてホッと息を吐く。
でも、念のため確認はしておこう。
「あの、頭とか打ってないですか?」
先程聞いた倒れる音も結構大きかったし、その勢いで頭を打っていたら大変だ。ただでさえデリケートな部分だから、尚のこと心配である。
「あ? 別に打ってねー……け、ど」
私の問いに上級生は答えようとするが、私と目が合った途端、言葉が途切れてしまう。
そして、ボッと火が出たかのように顔を真っ赤にし出した。
「えぇっ!?」
シュ〜ッと茹でたこのようになった上級生を前に、安心しかけていた心は再び焦り始めた。
やっぱり熱中症なんじゃないの……!?
***
日焼けした喉仏が上下に忙しなく動いている。
それに合わせて握られたペットボトルの中身が物凄い勢いで減っていき、あっという間に全てなくなってしまった。
「……ぷはぁっ! 生き返ったぜ!」
同時に、飲み口から口を離した上級生がそう言った。
五百ミリリットルもあったスポーツドリンクがものの数秒で飲み干されてしまったことに、隣で見ていた私はその豪快さに目を奪われるが、同時に冷たい飲み物を一気飲みすることで内臓に負担がかからないだろうかと心配になる。
遡ること数分前。 突然顔を真っ赤にし出した彼に酷く驚いた私は、慌てて近くの自販機でスポーツドリンクを買って渡した。
そしたら凄まじい勢いで飲み干されて、今に至る。
飲み終えた上級生は、私の視線に気付くとニカッと笑いながら空になったペットボトルを見せた。
「スポドリ、サンキューな! ごっそさん!」
青のラベルを伝う水滴がキラリと光り、白い歯が眩しく映る。
「いえ、気にしないでください。それより、そんなに一気に飲んで体は大丈夫ですか? さっきまで倒れてましたよね?」
私が聞くと、上級生は「あー……」と少しバツが悪そうな顔をしながらも答えてくれた。
「自主練してただけなんだけどよ、ちーっとばかし夢中になり過ぎてたみてーだわ。流石に疲れたから休憩しようと寝転がってたんだよ」
「そうだったんですね」
合点がいった。だからあんなぐったりした大の字から急に起き上がれたり、冷えたスポドリを一気飲み出来るわけだ。
「私、てっきり熱中症で倒れているのかと思って、慌てて水なんて掛けちゃいました。すみません……」
「謝るこたぁねーよ。まあ、確かに驚いたけどよ、暑かったら寧ろ有り難かったわ」
上級生はカラッとした笑顔でそう言った。
この人、見た目はヤンキーっぽくて口調も乱暴だけど、話してみると見た目ほど怖い人ではないみたいだ。
「でも、練習のやり過ぎには気を付けて下さいね? 私、本当にびっくりしたんですから」
「お、おう。ワリィ……」
「それにしても、総体も終わったばかりなのに自主練なんてストイックですね。今って運動部はどこも休息期間なのに」
そうでなくても大会が終わった後は気が緩んでも仕方がないというのに、自主的に早起きして暑い中体育館で一人ボールと向き合っていただなんて、ストイックという他ない。
私なんて、テストが終わって暫くは好きなことして過ごすというのに。
だから純粋に凄いなと思い言ったのだが、途端に上級生は表情に影を落とした。
「休んでなんていられねーよ。もっと強くなりてーし……そもそも、俺が足を引っ張らなければあの試合だって……」
そう呟いた彼はペットボトルを強く握りしめた。
最後の方は声が小さくてよく聞き取れなかったけれど、表情や声色から察するに何か思い詰めているように見える。
どうしたのだろうと心配になるが、次の瞬間、彼はすぐに元の調子に戻って「そういや」と思い出したかのように聞いてきた。
「お前、初日に応援来てたよな?」
「はい。友達から観に行こうって誘われて」
「……友達って、あの巻き毛の奴か?」
「姉崎さんのことですか?」
あの場で巻き毛といえば姉崎さんしか思い浮かばない。
長い髪をウェーブ巻きにしていて、それをハーフツインに結っているのが彼女のいつものヘアスタイルだ。
確認すると上級生は「多分それ」と返す。名前は知らなかったみたい。 私は首を横に振った。
「いいえ。私の友達は一緒にいたボブの子です。千夏ちゃんっていうんですけど」
「ボブ? あー、言われてみりゃもう一人いたような……」
「千夏ちゃん以外の人達とはあの場で偶然会っただけで、一緒に行く約束はしてないんです」
「そうだったんか」
上級生は腑に落ちたように言う。
「でも、そうだよな。お前みたいなかわ……じゃなくて、まともそうな奴があいつらと友達ってのは考えにくいわ。あの時もお前は俺に謝ってきたし」
「騒がしくしちゃってたわけですし、謝罪は当然かと」
「それ、あの連中にも聞かせてやりたいぜ……」
上級生は恨みがましく呟いた。
普段よっぽど姉崎さん達に苦労させられているんだろうなと察して、労しい気持ちになる。
その時、私はふと本来の目的を思い出して「あ!」と声を上げた。
「そうだった! 私、日直の仕事があるのでもう行きますね? それじゃあ」
私は立ち上がり、上級生にそう言ってその場を後にするが、その際に「なあ!」と呼び止められる。
「はい?」
「俺、二年の猪上崋山ってんだけど、お前はなんつーの?」
そういえば、まだお互い名前も知らなかったなぁ。
私は上級生改め猪上先輩に向き直った。
「小岩井美菜子です。一年です」
それだけ言って、私は今度こそ昇降口に向かった。
