冬の海から浮上する

 ○○


「日菜は海が好きだね〜」


 コートを急いで羽織る私を見て、おばあちゃんは編み物の手を止めた。そして、今日は耳当てを引き出しの中から探し出し、私に渡す。


「これずっと前に買ったんだけど、日菜に似合うかな?」


 それは手袋と同じ赤い、ふわふわとした細かい毛の耳当てだった。


「めちゃくちゃ可愛いー!」
 

 おばあちゃんの手から受け取り、身につけてみる。


「どう?」


 頭を傾げたり、回転したりして、自分の姿がおかしくないか見てもらう。
 

 するとおばあちゃんのしわのある手が伸び、私の頭を撫でた。


「似合ってる」


「やったー!」


 両手を思いっきり上げて、大げさに喜ぶ。


 耳当てをもらって嬉しいのもあったが、何よりもくれたおばあちゃんを喜ばせたかった。


「おばあちゃん、今日倉庫の自転車使ってもいい?」


 机の上にあるお茶を飲み干して、時刻を確認する。もう既に昨日家を出た時刻より三十分以上遅れていた。


「一人で出せるかね?」


「うーん、多分いけそう」


 お茶を飲んだコップを食洗機に乱暴に入れた。出来るだけ速く走り、玄関で靴を履く。


 おばあちゃんの「危ないから、海には近づいちゃいけないよ」という大きな声が聞こえてくる。


 それに威勢のよい声で返事をした。


 いつもは歩く道を自転車で通るのは不思議な気分で、景色を見ながら優雅に向かいたかった。だが、今の私にそんな余裕が無く、今出せる精一杯の力で重いペダルを漕いでいく。


 強い風がより強くなって私に向かってきた。その上、切るのが面倒くさくて伸ばした前髪が目にかかり、視界が見えづらくなる。


 それでもなんとか漕ぎ続け、視界の端に立っている芹を捉えた。


「芹!!」


 大きな声で名前を読んでみる。芹から反応はない。ただ海をぼんやりと見つめて、微動だにしない。


 私はその姿に恐怖を感じた。彼がどこか自分が手を伸ばしても決して届かない世界に行ってしまいそうな気がしたのだ。


「芹ーー!」


 さらに大きな声で呼んでみる。


 すると、流石に気づいたようで今さっきとは違う輝きのある丸い目を細め、こちらに手を振ってくれた。


 私は振り返そうとして自転車に乗っているのにも関わらず、片手をハンドルから離してしまう。


 案の定、バランスを崩し、派手な音ともに私の体は地面に叩きつけられた。


「日菜!!」


 倒れたときには既に芹が隣にいて、心配そうに私の顔を覗き込む。


「大丈夫?」


「うん。全然大したことないよ」


 手のひらから順番に怪我をしてそうな場所をみていく。
 幸いなことにかすり傷だけで出血している場所はなかった。


 二人で自転車を起こし、服についた砂を払う。


 芹と会話するために耳当てを自転車のかごに入れた。


「急に倒れるからびっくりした」


「自転車とか乗るの久々であんまり得意じゃないの忘れてた」


 えへへ、と笑い、どんくさい自分を誤魔化す。


 芹は呆れたかのように首を振った。


「今日は商店街に行こう!ずっと海なのは退屈だし、日菜は美味しいもの好きだろ?」


 芹は私の返事を待たずに商店街に向かって歩いていく。


 正直、海の波の音や空気を感じるのに飽きることはないだろう。それでも、芹と商店街に行くことを想像するだけで期待で胸がドキドキした。


「待ってー!」


 自転車をつきながら、かけ足で追いつく。


「なんか食べに行くの?」


「久しぶりにこの町に来た日菜に美味しいもの紹介しようと思って」


「楽しみ」


 商店街は大きなアーチ型の天井があり、規模は大きかった。


 しかし、平日だからだろうか、沢山人はいない。シャッターを下ろしている店が目立った。


 駐輪場に自転車を停める。


 すると、ピコンとポケットの中に入れているスマートフォンが音を立てた。


 取り出して見ると、クラスメイトから通知を切っているアプリ以外のメッセージアプリからメールがきている。


「日菜、どうした?」


 立ち止まる私を見て、芹が振り返る。


「何でもないよ」


 笑いながら首を横に振る。そして、そのメッセージアプリの通知も切り、ポケットの中に入れた。


 今だけは、この町に来ている二週間だけはややこしい人間関係のことを考えたくなかった。芹とただ何も考えずに過ごしたかった。


 芹が最初に私に案内してくれたのはコロッケの歴史あるお店であった。


 揚げたてのコロッケの油やころもの匂いが鼻をくすぐる。


「どれがおすすめなの?」


 思わず早口になる。


 私がコロッケを前に興奮しているのを感じたのか、声を出して芹が笑う。


「じゃがいもコロッケがおすすめ。ホクホクで美味しいよ」


「じゃあ、それにする!」


 店員さんに声をかけてじゃがいもコロッケを注文する。すると、「お嬢さん」と声をかけられた。


「高校生?」


「そうです」


「若い子がこの店に買いに来てくれるの久しぶりで嬉しいな〜。ほら、最近は流行りの店ができてそっちに流れちゃうから」


 店員さんは斜め右向かいのカラフルな外装のお店をちらりと見る。


 確かにこの商店街にいる子供連れや若い人達が集まり、小さな行列ができていた。


「お嬢さん一人?」


「いえ、友達と来てます」


 すぐ横にいる芹をちらっと見る。


 店員さんは存在感のある芹に気づいていないのだろうか?もしくは、私が暗いし、人間づきあいが下手なのがバレて友達に見えない、とか?


 おそらく後者だと考えた私は一人で勝手に落ち込む。


 その時、コロッケが揚がったことを知らせるタイマーの音が鳴った。


 店員さんは、熱々のコロッケを白い包み紙に入れる。


「熱いから気をつけてね」


「ありがとうございます」


 受け取ったコロッケは柔らかく、少し力を入れただけで崩れてしまいそうだった。


「いただきまーす」


 小さく呟いて、大きな一口でかぶりつく。その瞬間、こ ろもの油、茶色いソース、じゃがいもが口の中で調和する。しかし、想像しているよりもはるかに熱かった。


 私は口を少しあけて首を振る。冷たい空気が中に入ってきた。


「美味しい?」


 腕を胸の前で組んだ芹がじっと私を見る。


 なんとか口の中にある一口分のコロッケを飲み込んだ。お腹の中にあっても未だに熱い気がする。


「めっちゃ熱々だね」


「そこが美味しいポイントなんだよ」


「うん。めっちゃ美味しい。だけど喉渇いちゃった」


 辺りを見渡して、自動販売機を探す。


「どこか飲み物買える場所ないかな?」


 私がそう言うと芹はその言葉を待ってました、というような感じで私の手を取り、歩き出す。


 久しぶりに会った芹とこんな風に仲良く過ごせていることが嬉しくて自然と口角が上がってくる。


 周りから視線を感じた私は俯いて緩みきった表情を隠した。


「着いた」


 それから五分もしないうちに芹の手が私から離れる。


 顔を上げると比較的大きな八百屋の一角にある果物ジュースのお店だった。


「私、こういうジュースめちゃくちゃ好きなの!」


 小走りでお店の前の小さな黒板に書かれているメニューに近づく。


 このお店もコロッケのお店と同じく、歴史があるらしく、『当店五十年の味』と横に書かれているミックスジュースに惹かれた。


「ミックスジュースお願いします」


「あいよ」


 店員のおじさんがカットされたりんごやバナナ、桃などのフルーツを大きなミキサーの中に入れる。そして牛乳を加え、スイッチを押して混ぜ合わせていく。


「お嬢ちゃん、りんごいける?」


「はい。食べれます!」


「ちょっと待っててね」


 おじさんは隣の八百屋から取ってきたりんごをカットし、皮をうさぎの耳のようにする。


 ミキサーから出来上がったミックスジュースをプラスチックの容器に注ぎ、その容器の端に可愛い形のりんごを添えた。


「どうぞ。また来てね」


「ありがとうございます」


 喉が極限に渇いていたこともあり、受け取ったすぐ後に飲んでみる。


 全然甘くない素朴な味がしたが、果物の繊維など材料そのものが活かされていた。


「芹が勧めてくれたお店凄いね。店員さん、いい人だし、めちゃくちゃ美味しいし」


 右手にコロッケ、左手にミックスジュース。隣にいるのは芹。


 ここ最近で一番幸せかもしれない。


「良かったー!俺、ちっちゃい頃の日菜しか知らないから気に入るか心配してたんだよ」


 芹は安堵の息を吐く。


「この先にベンチあるからそこ座ろっか。歩きっぱなしで疲れたでしょ?」


「うん。ありがと」


 少し歩くと屋根があり、ベンチが沢山ある屋外休憩スペースにたどり着いた。


 ベンチに座ってコロッケをかじる。ちょうどいい温度になっていた。


「日菜、今日は楽しかった?」


 隣に座る芹が手をいじりながらソワソワした様子で私に問いかける。


「めちゃくちゃ楽しかった。久しぶりだよ、こんなに何も考えずに楽しんだの」


 両手の親指を立てて見せると芹は良かったーっと体を伸ばした。


「昨日見た日菜はなんか昔とは違うっていうか、無邪気さ?みたいなのが無かったから心配してたんだよ。だから今日の姿見て安心した」


「あ……バレてた?」


 私は居心地が悪くなって頭をかく。


「何があったのかは知らないけど、今日は“今”の日菜のこと教えてよ。昨日約束しただろ?」


 『明日は日菜の番だから』
 昨日言ったのはこういう意味だったんだ。


「いいよ。何から話そう?」


「じゃあ!日菜の住んでるところで流行ってること教えて」


 芹は興味津々の様子で目を輝かせる。


 久しぶりに会った時も思ったが、やっぱり子供っぽいところがある。でもそれを言うと本人は嫌がりそうなので心の中にとどめた。


 ポケットの中からスマートフォンを取り出す。


「私の住んでるところっていうか、女子高生はねみんな写真を撮るのが好きなの」


 最近人気の写真アプリを開き、二人の姿をカメラの中に入れる。


 猫のスタンプを押すと、私の頭に耳が現れた。さらに、口を開くと猫の鳴き声がする。


「え!すげー!」


 芹はスタンプが反応していないにもかかわらず顔を近づけたり、カメラに向かって手を振ったり、画面に釘づけだ。


「……写真撮ってもいい?」


 恐る恐る聞くと芹は早くも顔の横でピースをして、ノリノリだ。


 私もピースを作り、「はい、チーズ」とシャッターボタンを押す。


「凄いな。最近はこんなことが出来るのか」


 写真を確認していると真剣に芹が隣で呟く。


 私はついつい笑ってしまった。だって芹の言ってることがおじいちゃんのようだったから。


「いいな」


「え?」


 芹が唐突に呟く。


 「だって、日菜の友達は日菜とこんなに楽しい時間を過ごしてるってことだろ?羨ましいよ。俺も日菜と同じ所に住んでたらな〜」


 そうだろ?、と彼は目を合わせてくる。


 私は純粋な目を向けてくる芹を直視できなかった。下を向いてスマートフォンをぎゅっと握り、首を横に振る。


「……そんなことないよ。私なんて空気読めないし、卑屈だし、優柔不断で最悪だよ。こんな人と友達になっても」


 楽しくないよ、そう言おうとした時、突然芹にほっぺたを両手で挟まれる。そして強制的に顔を見合わせる形となった。


「ネガティブ禁止!」


 芹はほおを膨らませ、怒ったような表情を作る。


「日菜は自分のこと悪く見すぎ」


「そんなこと」


「あるよ。俺は日菜“だから”、日菜と居て楽しいし、好きだから一緒にいるんだよ」


 芹の真っ直ぐな言葉が胸にそっと入って、バキバキになっていた心を癒してくれる。


 人間関係に悩んでいた。色んな人に良く見られたくて慣れないSNSに手を出して、気づけば疲れ果て、心はボロボロだった。


 私は彼のこの言葉が欲しかったんだと気づく。


 フォロワーとかそういうステータスで見られるのではなくて、私自身を見て、本当の私を好きだと言ってもらいたかったんだ。


 頬の上にある芹の手をぎゅっと掴む。


「ありがとう。私も芹のことが好きだから一緒に過ごしてるよ」


 改めて感謝を伝えると私の心まで温かくなる。“好き”という言葉も緊張せず、気づけば口からこぼれていた。


 芹は満足したのか、大きく頷き、手を離す。


「俺達はくだらない話をして笑ってるのが一番似合ってる」


「だね」


 突然の真面目な話に恥ずかしくなって互いに目をそらす。


 今は私が質問に答える側なのに芹から大事な答えをもらった。