冬の海から浮上する

○○ 


「おばあちゃん、行ってくるね」 


「ちょっと待って。これ持っていきな」


 おばあちゃんが赤い毛糸の手袋を渡してくる。


 それは私がこの町に来た一週間前からおばあちゃんが編み始めたものだった。


「ありがとう」 
 

 手袋を受け取り、手につける。今の私には少し小さかったがおばあちゃんの愛情が私の心を癒やしてくれるような気がした。


「行ってきます」


 玄関で心配そうに見つめるおばあちゃんにわざと大きく手を振る。


 おばあちゃんはそんな私を見て柔らかい笑みを顔に浮かべた。


「今日は日菜の好きな魚の煮込みだから早く帰ってきてね」


「分かった。楽しみにしてる」


 私はおばあちゃん家から出た後、ゆっくり一歩一歩を踏みしめるように道を歩いていく。するとすぐに私の横に大きな海が現れた。


 海から吹く風は湿っており、ツンと鼻につく独特な潮の匂いがする。私はその空気を肺いっぱいに吸い込んだ。


 この町に来た理由は決して一言で表せるものではない。それでも無理やり一言で表そうとするならば逃げてきた、この言葉が最もふさわしいと思う。


 私はこの小さな町とは正反対の大きな都市に住んでいる。


 買い物をする場所には全く困らないし 、欲しいものは何でも手に入る。インターネット環境も抜群であるし、誰もが自分のアカウントを持ち、いつでもどこでもいろんな人と交流できる。だからなのか、私は全てをやめたくなった。全てを捨ててしまいたかった。


 気がつけば、インターネットは私達の生活に入り込み、蜘蛛の網のように全てを結びつけてしまった。
 

 学校だけではなく、家でも人間関係に支配され、フォロワーの多さでその人の価値が決まる。一つのボタンで友達になれるし、一つのボタンで簡単に関係を終わらせることも出来る。


 そのことが私には酷く馬鹿げていることに思えた。疲れてしまった。 


 複雑に入り組んだ人間関係を捨てて、どこかに逃げてしまい。それを叶えるために二週間という期限付きではあるが、この町にやって来た。


 吸い込んだ息をふーっと吐くと視界いっぱいに白が広がり、冬の寒い空気が体をしめつける。


 私は自動販売機で温かいココアを買い、海が一番綺麗に見えるベンチに腰を下ろした。


 波が大きな岩にぶつかり、白い泡が弾ける。聞こえてくるのは海鳥の声と波が砂浜に打ちつける音だけだった。


 私は目をつぶり、その心地よい音に耳を傾ける。


 この瞬間だけは頭の中から全てが無くなり、都会での日々が嘘であったように感じられた。


 ポケットからスマートフォンを取り出し、海の写真を撮る。 


 昨日の海と比較すると今日の海は何か包みこんでくれるような温かいものを感じた。


「……平和だな」


 海に語りかけるように思っていることをぼそっと口に出す。


 すると、誰かの鼻で笑うような声が聞こえた。


 チラっと横を見ると誰かが沢山のベンチがあるのにも関わらず、私の側に座っている。私はそのことに今、気がついた。


 その人は様子がおかしかった。冬であり、かつ今日はここ一週間で一番寒いのにもかかわらず、半袖のカッターシャツを着ている。


 私は独り言を聞かれた恥ずかしさもあり、動揺を落ち着かせるためにココアの缶を開け、口に流し込んだ。 


 そして、急いで立ち上がりおばあちゃん家に帰ろうとする。隣の人がとことん怪しいことよりも沈黙が私には苦痛だった。


「大きくなったね。日菜」


 隣の人は立ち上がる私を見て、感慨深そうに呟く。


 私はその言葉を聞いてようやくその人をしっかり視界に入れることができた。


 真っ黒い綺麗に揃えられた短髪にまん丸で大きな目。口は弧を描いている。そして港町に住んでいる人らしい、焼けた小麦色の肌。


 私はそんな人とどこで会ったのか、全く見当がつかなかった。


「すいません。どこかでお会いしたことありますか?」


「忘れたの?まあそれでも仕方ないか。もう何年も前のことだから」


 その人は大きな目を瞬かせ、自分を指しながら「芹だよ」と言った。


 その瞬間、私の隅にあった記憶が波のように押し寄せてきた。


 あれは小学三年生の頃だったと思う。


 両親と一緒にお盆の季節にこの町に帰省したことがあった。
 

 あの頃の私はあまり見ない海のもの珍しさに母を困らせるくらい何度も海に行くことを強請った。しまいには母に内緒で海に来ることもあった。


 その時に出会ったのが芹だった。


 芹は色々なことを知っていて、よく私に面白いお話を聞かせてくれた。そんな芹が私の憧れであったし、大好きなお兄ちゃんだった。


 今、久しぶりに芹を見ると記憶の大人びた芹とは違うどこか子供っぽさを感じる。


 私はベンチに再び、腰を下ろし、芹と向き合った。


「忘れててごめん。今、思い出した」


「良かったー!日菜が変わりすぎてて人違いかと思った」


「ごめんごめん」


 芹は安心した、と大げさに息を吐く。


「元気にしてたか?」 


「してたよ!この通り大きくなりました」 


 私はまるで筋肉が沢山あるボディービルダーのように両手を曲げてみる。


 すると芹のスラッとした手が伸び、私の頭をそっと撫でた。丸い目も細くなり、誰よりも優しい笑みに変わった。


「あの頃、日菜が急に、ここに来なくなって心配した。それから一切この町に来なくなったし」


 私は頭の上にある芹の手を掴んでおろす。もう高校生になったのに、いつまでも子供扱いされるのが恥ずかしかった。


「心配してくれてありがとう。あの頃のことはよく覚えてないけど、確か、予定より早く帰ることになって芹に帰るって言えなかったんだと思う」


「まあその理由なら仕方ないけど、どうしてこの町に帰って来なかったんだ?」


 芹が隣に座る私の体にぐいっと近づく。


 私は芹の肩を押さえて、乗り出した体をもとに戻した。


「忙しかったの。ここから私の住むところは遠すぎる」


 そう言い放ち、ベンチから立ち上がる。そして自動販売機へ向かった。


 それはあまりの風の強さに体が冷えたのもあったが、それよりも早くこの話題を終わらせたかったから。


 あの頃のことは本当によく覚えていない。だけど、私が芹に嘘をついているということだけは分かった。この町を急に去ったのは単純な理由ではない。母はあの頃を境にこの町に行くことを拒む。それが何よりの証拠な気がした。


「芹はなんか飲む?」


 自分の分のココアがガラッと音を立て、取り出し口に落ちる。手袋越しに掴んでも伝わる温かさが気持ちを落ち着かせた。


「なんも飲まない」


「え、なんか温かいの飲まないの?芹、見てるだけで私まで寒いんだけど」


 芹に向かってココアの缶を投げる。


 芹はコントロールの効いていないそれをベンチから立ち、なんとかキャッチした。


「それあげる。だから私にも質問させてよ」


 二人の間を冷たい風が吹き抜ける。芹の小さなうなずきが 質問開始の合図となった。


 あえてベンチに戻らず、辺りをうろつきながら最初の質問を投げかける。


「なんでこんな寒いのに半袖なの?もしかして年中、半袖着てる無敵な男子小学生?」


 腕を後ろに組んで、大きく首を傾げる。


 芹は仕方ないな、という風にふざける私に乗っかってきてくれた。


「いや、普通に高三で日菜よりも年上。半袖着てるのは、袖があるのがうっとうしいから」


「制服?」


「そう。こっから歩いて三十分くらいの所にある学校に通ってる」


 商店街の奥にあるこの町唯一の高校のことだろう。昔、おばあちゃんが通っていたと話を聞いたことがある。


「楽しい?芹は友達、いっぱい居そう」


「あぁ、いるよ。あいつらほんとに面白いんだよな」


 芹は友達のことを考え、顔をにこにこさせる。


 芹の友達は一体どんな人達なんだろう。私の好奇心は動かされた。


「友達ってどんな人達なの?教えてよ」


「日菜は昔も同じこと聞いてきたよな。よし!いいよ。教えてあげる」


 少し早歩きでベンチに戻り、芹の話に耳を傾ける。今度は私の方が身を乗り出していたかもしれない。


「俺には保育園の頃から仲良い二人の幼馴染がいるんだ。一人は柊っていうんだけど、こいつは無口で基本的に自分の考えを言わない。結構厄介な奴だよ」


 ほんとに、と芹は小さな声で付け足す。


「でも、普通に優しくていい奴。小さい頃からサッカーが好きで暇さえあればボールで遊んでたな。今ではサッカー部のエースらしい」


「すごっ」


 両手を合わせて小さくパチパチと音を立てる。


 自分のことではないのに得意げに芹は笑った。


「もう一人は由美子。この子はおしゃべりでいっつもなんか喋ってる。騒がしい子なんだけど、相づちをうつだけで凄く嬉しそうな顔をするんだ」


 私はどこか由美子、柊という名前を自分の近くで聞いたことあるような気がした。でもその違和感を無視して、
「それで?」と言う。


「由美子は本当によく笑う。どんなにつまらないことを言っても、誰よりもよく笑ってくれるんだ」


 芹は由美子のことを頭に思い浮かべながら、優しい顔をする。


 あぁ、私気づいちゃったよ。きっと彼は彼女のことが好きなのだろう。


 今の芹を見ればそんなことは一目瞭然だった。


「芹はその子が好きなんだね。ねぇ!告白しないの?」


 芹の腕を掴んでゆらゆら揺らす。


 私はきっと顔全体を真っ赤にして照れるだろうと思っていた。しかし、芹は寂しそうな顔をする。


「正確に言うと好きだった、かな」


「好き“だった”?」


 芹の言い方には何か含みがあるように感じられた。


「そう。きっとお互いに好きだったんだと思う」


 芹に握られた缶が音を立てる。


「今、由美子は柊のことが好きなんだ」


「え?」


 驚きすぎて素っ頓狂な声が口から漏れる。それは三角関係ということだろうか。


「柊も由美子のことが好きなんだ」


「ちょっと待って。ちょっと待って。芹は気持ち伝えなかったの?」


 私の胸には芹に対する同情と由美子に対する怒りが胸の半分ずつを占めていた。


 芹はこんなにいい人なのに、心変わりするなんて。しかも、幼馴染に。


「しようとした。ちょうどここで」


 私は芹がじっと見る方へ、視線を向けた。そこには何も無く、ただの砂浜が広がっているだけだった。


「俺は由美子に告白しようとしたんだ。だけど、気づいたら海に飛び込んでた」


「……どういうこと?」


 気づいたら海に飛び込んでいた、その言葉を何度も頭の中で噛み砕く。しかし熟考しても答えは出ず、彼が嘘をついているように思えた。


「自分でも分からないな。もしかしたら恥ずかしかったのかも」


 自分の恋の失敗談を芹はあたかも冗談を言っているかのように軽々しく話す。


 私はそんな芹の様子に合わせて「なにそれ」と笑い、横目でチラッと彼を見た。


 芹も顔には笑顔を浮かべていて、何でもないように見える。


 何かもっと複雑な事情がありそうだと思うのは私の考えすぎなのだろうか?もしかしたら芹は振られたのが恥ずかしくて私に嘘をついているかもしれない。そう考えると芹のおかしな発言に納得出来るような気がした。


「それから…………」


「俺の話はもうおしまい!!」


 私が話の続きを聞こうとした時、突然、芹は手をパンッと叩いて立ち上がる。


 それは明らかにこれ以上深入りされるのが嫌なのであろう、拒絶だった。


「明日もここに来るよな?」


「多分。来ると思う」


 しどろもどろに答える私を見て、芹はいたずらな笑みを浮かべた。


「なら、明日は日菜の番だから」


「え、待って。それってどういう」


「いっぱい聞くからーー!!」


 彼はそれだけを言い残して、海とは真逆の商店街の方へ走っていく。


 私はあまりに唐突すぎる芹の行動に追いかけることもせず、無気力に「なにそれ……?」と呟いた。