- お泊まり愛。
朝、お客が来る前、つけっぱなしになったTVからそのしらせを聞いた時、僕はパソコンに打ち込んでいた会計をひと桁間違うところだった。
画面には今大人気の若手俳優の顔とともに彼女の不自然な目と、リスのような白い歯を見せた笑顔の写真がならんだ。
今まで何を信じて来たのだろう、僕は。
気づけば彼女と過ごした14年間にせまる勢いで年月は過ぎ、
僕は小学校教師の夢をあきらめて建築事務所の事務をしている。
僕の知らない彼女がいて当然だった。
しかも、彼女は、
年齢をふたつさばを読んでいた。
- うち、あんたが好きじゃけん。
そう言って頬を赤らめた彼女はもう何処にもいないのだ。
- 速報です。
熱愛が発覚した - の -さんが、午後3時から記者会見を開くそうです。
(茶番だ)
僕はそっとTVを消した。
- うち、あんたが好きじゃけん。
その純粋な一言に、僕は応えられなかった。
僕はその日広島駅から少し歩いたところにある焼き鳥屋で独り飲んでいた。
そこでもご丁寧にTVが点いていて、彼女の謝罪記者会見の録画が放送されていた。
- ファンのみなさんにご心配をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。
- 彼とは、ただのお友達です。家に泊まったのは事実ですが、何もありませんでした。
ごちゃっと客が詰まった店内に、彼女の不自然に高い声が響き渡っていた。
「アイドルなんて、みんな嘘つきじゃろ」
誰かがそうつぶやいた。酒で荒れた声で。
「この子、広島出身なんじゃろ? 広島に泥塗ったんじゃ」
僕は、
胸の中で美しく微笑む彼女が、まるで宮島の白い砂のようにさらさらと消えて行くのを感じていた。
僕はいったい今まで、何を想い、何を待っていたんだろう。恋人のひとりも作らず。
きっと彼女は、
僕の知らないところで美しくなるためのたいへんな手術を受け、美しく見せるために過酷なダイエットをして、そして話題作りのためにどこぞの若手俳優と寝た。
僕の知っている彼女は、
もう、何処にもいない。
「ここにいると思った。ねぇ、隣良い?」
顔を上げると、事務所の女の子が目の前にいた。
彼女には似ても似つかないが、広島特有の白い肌の女の子だった。
僕が軽くうなずくと、その子は安心したのか失望したのか、
あいまいに笑って見せた。サンゴ色の唇で。
- 辛いことがあったら、いつでも帰って来てええ。
東京へ向かう彼女を広島駅のホームで見送る時、僕の口から出た言葉は、そんなありきたりのものだった。
彼女は大きな目に大粒の涙を浮かべ、だがひとつもこぼさなかった。
僕は、
そんなけなげな彼女の姿を見ながら、喉元まで突き上げて来る想いを、どうしても口にできなかった。
- うち、女優になる。
その夢へ向かってこれから真っ直ぐに歩んで行くであろう彼女に向かって、不確かな事は言えなかった。
そんな僕に、彼女は、
- 帰って来んよ。
そう言って微笑った。
リスのような白い前歯が、きらりと光っていた。
- だから、あんたが会いに来て。ええ?
その彼女の最後の望みは今も、叶えられていない。
僕はしがない建築事務所の事務で、彼女は国民的アイドル。彼女がたまに寄越す手紙や電話もとうの昔に途絶えた。
僕は、
そろそろ歩き出す時期に来ているのかも知れなかった。
「うち、あんたの事、ずうっと好いちょったんよ。気付いちょった?」
僕のとなりで今頬を赤らめる子を、じっと見つめた。
路面電車は今日も走る。
広島の中心を、ゆっくりと、ゆっくりと。
また10月が来る。
僕は独りで宮島を訪れていた。
路面電車に乗らず、広島駅から山陽本線に乗り、宮島口からフェリーに乗って来たのだった。
山々は、紅に、赤に、朱に、黄色に、金色に染まっていた。
ここは確かに神に守られた場所なのだ。
そして僕と彼女は、確かに何か大きなものに守られていた。
彼女は楓の木の下で、恋に似た蜜の薫りを嗅ぎ、僕はその薫りを、今なら感じる事が出来る。
- うち、あんたの事、好きじゃけん。
今なら、
- 僕もきみの事、好きじゃ。
そう、はっきりと応えられる。
水彩絵の具で染めたような秋の青い空だった。
白いうす雲を衣(ころも)の代わりにさらりとまとった空だった。
彼女の微笑みが懐かしかった。
僕は、TVや動画サイトで見る彼女の作り笑顔が大嫌いだった。
電話番号もメールアドレスも全て変えてしまうんだ。
僕の中の彼女の痕跡を、笑い声を、高い声を、大きな愛らしい目も、笑った時に見せるその白い前歯を。
僕は。
僕は。
僕は -
「いてっ!」
頭に何かが落ちて来た。
(どんぐり)
僕の足元に落ちたのは、小さな小さなどんぐりだった。
(サルのしわざ?
あ、リスか)
瞬間、
潮風とともに鼻に届いたのは何処か甘い薫り。
- 楓の匂いがする!
- そうじゃ。する!
胸が引き裂かれそうだ。今、会いたいひとはひとりだけ。誰も代わりになんてならない。代わりなんていない。ひとりだけ。ただ、ひとりだけに会いたい。会いたい、会いたい、会いたい -
その夜、スマートフォンが震えた。
- なぁ、うち、帰ってええ?
10数年ぶりに聞いた彼女の声は、涙で震えていた。たよりなく、今にも消え入りそうだった。
- 広島に、帰ってええ?
- 帰ってええ! 帰ってええ! 今すぐ帰って来い!!
僕はそう電話口で叫んでいた -
朝、お客が来る前、つけっぱなしになったTVからそのしらせを聞いた時、僕はパソコンに打ち込んでいた会計をひと桁間違うところだった。
画面には今大人気の若手俳優の顔とともに彼女の不自然な目と、リスのような白い歯を見せた笑顔の写真がならんだ。
今まで何を信じて来たのだろう、僕は。
気づけば彼女と過ごした14年間にせまる勢いで年月は過ぎ、
僕は小学校教師の夢をあきらめて建築事務所の事務をしている。
僕の知らない彼女がいて当然だった。
しかも、彼女は、
年齢をふたつさばを読んでいた。
- うち、あんたが好きじゃけん。
そう言って頬を赤らめた彼女はもう何処にもいないのだ。
- 速報です。
熱愛が発覚した - の -さんが、午後3時から記者会見を開くそうです。
(茶番だ)
僕はそっとTVを消した。
- うち、あんたが好きじゃけん。
その純粋な一言に、僕は応えられなかった。
僕はその日広島駅から少し歩いたところにある焼き鳥屋で独り飲んでいた。
そこでもご丁寧にTVが点いていて、彼女の謝罪記者会見の録画が放送されていた。
- ファンのみなさんにご心配をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。
- 彼とは、ただのお友達です。家に泊まったのは事実ですが、何もありませんでした。
ごちゃっと客が詰まった店内に、彼女の不自然に高い声が響き渡っていた。
「アイドルなんて、みんな嘘つきじゃろ」
誰かがそうつぶやいた。酒で荒れた声で。
「この子、広島出身なんじゃろ? 広島に泥塗ったんじゃ」
僕は、
胸の中で美しく微笑む彼女が、まるで宮島の白い砂のようにさらさらと消えて行くのを感じていた。
僕はいったい今まで、何を想い、何を待っていたんだろう。恋人のひとりも作らず。
きっと彼女は、
僕の知らないところで美しくなるためのたいへんな手術を受け、美しく見せるために過酷なダイエットをして、そして話題作りのためにどこぞの若手俳優と寝た。
僕の知っている彼女は、
もう、何処にもいない。
「ここにいると思った。ねぇ、隣良い?」
顔を上げると、事務所の女の子が目の前にいた。
彼女には似ても似つかないが、広島特有の白い肌の女の子だった。
僕が軽くうなずくと、その子は安心したのか失望したのか、
あいまいに笑って見せた。サンゴ色の唇で。
- 辛いことがあったら、いつでも帰って来てええ。
東京へ向かう彼女を広島駅のホームで見送る時、僕の口から出た言葉は、そんなありきたりのものだった。
彼女は大きな目に大粒の涙を浮かべ、だがひとつもこぼさなかった。
僕は、
そんなけなげな彼女の姿を見ながら、喉元まで突き上げて来る想いを、どうしても口にできなかった。
- うち、女優になる。
その夢へ向かってこれから真っ直ぐに歩んで行くであろう彼女に向かって、不確かな事は言えなかった。
そんな僕に、彼女は、
- 帰って来んよ。
そう言って微笑った。
リスのような白い前歯が、きらりと光っていた。
- だから、あんたが会いに来て。ええ?
その彼女の最後の望みは今も、叶えられていない。
僕はしがない建築事務所の事務で、彼女は国民的アイドル。彼女がたまに寄越す手紙や電話もとうの昔に途絶えた。
僕は、
そろそろ歩き出す時期に来ているのかも知れなかった。
「うち、あんたの事、ずうっと好いちょったんよ。気付いちょった?」
僕のとなりで今頬を赤らめる子を、じっと見つめた。
路面電車は今日も走る。
広島の中心を、ゆっくりと、ゆっくりと。
また10月が来る。
僕は独りで宮島を訪れていた。
路面電車に乗らず、広島駅から山陽本線に乗り、宮島口からフェリーに乗って来たのだった。
山々は、紅に、赤に、朱に、黄色に、金色に染まっていた。
ここは確かに神に守られた場所なのだ。
そして僕と彼女は、確かに何か大きなものに守られていた。
彼女は楓の木の下で、恋に似た蜜の薫りを嗅ぎ、僕はその薫りを、今なら感じる事が出来る。
- うち、あんたの事、好きじゃけん。
今なら、
- 僕もきみの事、好きじゃ。
そう、はっきりと応えられる。
水彩絵の具で染めたような秋の青い空だった。
白いうす雲を衣(ころも)の代わりにさらりとまとった空だった。
彼女の微笑みが懐かしかった。
僕は、TVや動画サイトで見る彼女の作り笑顔が大嫌いだった。
電話番号もメールアドレスも全て変えてしまうんだ。
僕の中の彼女の痕跡を、笑い声を、高い声を、大きな愛らしい目も、笑った時に見せるその白い前歯を。
僕は。
僕は。
僕は -
「いてっ!」
頭に何かが落ちて来た。
(どんぐり)
僕の足元に落ちたのは、小さな小さなどんぐりだった。
(サルのしわざ?
あ、リスか)
瞬間、
潮風とともに鼻に届いたのは何処か甘い薫り。
- 楓の匂いがする!
- そうじゃ。する!
胸が引き裂かれそうだ。今、会いたいひとはひとりだけ。誰も代わりになんてならない。代わりなんていない。ひとりだけ。ただ、ひとりだけに会いたい。会いたい、会いたい、会いたい -
その夜、スマートフォンが震えた。
- なぁ、うち、帰ってええ?
10数年ぶりに聞いた彼女の声は、涙で震えていた。たよりなく、今にも消え入りそうだった。
- 広島に、帰ってええ?
- 帰ってええ! 帰ってええ! 今すぐ帰って来い!!
僕はそう電話口で叫んでいた -



