庭の一本桜が散りはじめても、義姉はまだ家の片付けをしていた。
「本当に片付かなくって」
いつも灰色の質素な着物を着ている義姉は、僕の顔を見るたびに決められた台本のようにそう言った。
美しいひとだった。白く小さな顔をし、頬はばら色で、鼻が細く高く、唇は紅くたっぷりとしていた。背が低く、黒髪をいつも後ろでひっつめていたが、美しいひとだった。
結婚から三ヶ月も経たないうちに兄が急逝し、それからこのひとはこの小さな平屋の借家にひとりで住んでいるのだった。
桜は薫らないが、すっかり春めいた陽気で、みかん色の光を受けた薄紅色の花びらが、ふき清められた縁側から清潔な畳までを彩っていた。
このひとはこれからどうするのだろう、と僕は思った。両親は僕にこのひとをもらえば良いとかんたんに言った。悪くないと思った。このひとを実家に帰す話もあった。悪くはないと思った。
このひとと兄はお見合いで出会った。
無口な兄はこのひとについて語ることはなかった。このひとは義両親や義弟である僕ともうまくやっていた。いつも小花がぽっと咲いたような笑みを浮かべ、静かに兄のそばにいた。
兄が交通事故で亡くなり、残ったものは大量の本だった。僕も何冊かもらった。このひとは読むのだろうか。兄は哲学やら天文学やらそう言うものがすきであったが。
兄が亡くなり、両親は折に触れ僕をこのひとの家にやり、いっしょに住まないかと打診していた。そのたびにこのひとは困ったように微笑んで、まだ片付きませんで、とこたえた。
片付ける気がないように思えた。いつもきれいに整えられた家の中で、兄の書斎だけが手付かずのままだった。
煎茶の澄んだみどり色に、そっと花びらの舟が浮かんだ。
義姉が、空を見上げた。否、桜を見上げたのかもしれない。
兄が亡くなりまだ数ヶ月だが、このひとさえ良ければ、僕はいつでもお嫁に来てほしいと思っていた。僕は外見ばかり細面の兄に似ていた。学者である兄とは違い、僕は小学校の先生をしていた。子どもも好きだし、教えることも好きだ。孤独を好んだ兄とはそこが違った。
なぜ、兄はこのひとと結婚したのだろう。長男としての義務か。孤独に終止符を打つ決心をしたのか。年齢的なものか。
「むずかしい本ばかりですね」
義姉は困ったようにそう言った。兄の遺した本のことだ。このひとの口ぐせだった。
このひとも兄と似て、あまりしゃべるのが得意ではないように思えた。だが、人付き合いの苦手な兄に代わり、様々な面倒をこなしていた。兄の通夜の時も葬式の時もそうだった。涙ひとつ見せず。
薄紅色の舟がふたつになった。今日こそ言おうと思っていた。僕と結婚してくれないかと。
「夫婦らしいこともなんもできませんでした」
義姉は、宙を見つめたまま、独り言のようにそう言った。誰と話しているのかわからなかった。決められた台本のようだった。ひっつめた髪の後れ毛が、春のそよ風に頼りなく揺れていた。
「あのひと、
私たちは恋からはじめましょうね、と仰ったのですよ」
「本当に片付かなくって」
いつも灰色の質素な着物を着ている義姉は、僕の顔を見るたびに決められた台本のようにそう言った。
美しいひとだった。白く小さな顔をし、頬はばら色で、鼻が細く高く、唇は紅くたっぷりとしていた。背が低く、黒髪をいつも後ろでひっつめていたが、美しいひとだった。
結婚から三ヶ月も経たないうちに兄が急逝し、それからこのひとはこの小さな平屋の借家にひとりで住んでいるのだった。
桜は薫らないが、すっかり春めいた陽気で、みかん色の光を受けた薄紅色の花びらが、ふき清められた縁側から清潔な畳までを彩っていた。
このひとはこれからどうするのだろう、と僕は思った。両親は僕にこのひとをもらえば良いとかんたんに言った。悪くないと思った。このひとを実家に帰す話もあった。悪くはないと思った。
このひとと兄はお見合いで出会った。
無口な兄はこのひとについて語ることはなかった。このひとは義両親や義弟である僕ともうまくやっていた。いつも小花がぽっと咲いたような笑みを浮かべ、静かに兄のそばにいた。
兄が交通事故で亡くなり、残ったものは大量の本だった。僕も何冊かもらった。このひとは読むのだろうか。兄は哲学やら天文学やらそう言うものがすきであったが。
兄が亡くなり、両親は折に触れ僕をこのひとの家にやり、いっしょに住まないかと打診していた。そのたびにこのひとは困ったように微笑んで、まだ片付きませんで、とこたえた。
片付ける気がないように思えた。いつもきれいに整えられた家の中で、兄の書斎だけが手付かずのままだった。
煎茶の澄んだみどり色に、そっと花びらの舟が浮かんだ。
義姉が、空を見上げた。否、桜を見上げたのかもしれない。
兄が亡くなりまだ数ヶ月だが、このひとさえ良ければ、僕はいつでもお嫁に来てほしいと思っていた。僕は外見ばかり細面の兄に似ていた。学者である兄とは違い、僕は小学校の先生をしていた。子どもも好きだし、教えることも好きだ。孤独を好んだ兄とはそこが違った。
なぜ、兄はこのひとと結婚したのだろう。長男としての義務か。孤独に終止符を打つ決心をしたのか。年齢的なものか。
「むずかしい本ばかりですね」
義姉は困ったようにそう言った。兄の遺した本のことだ。このひとの口ぐせだった。
このひとも兄と似て、あまりしゃべるのが得意ではないように思えた。だが、人付き合いの苦手な兄に代わり、様々な面倒をこなしていた。兄の通夜の時も葬式の時もそうだった。涙ひとつ見せず。
薄紅色の舟がふたつになった。今日こそ言おうと思っていた。僕と結婚してくれないかと。
「夫婦らしいこともなんもできませんでした」
義姉は、宙を見つめたまま、独り言のようにそう言った。誰と話しているのかわからなかった。決められた台本のようだった。ひっつめた髪の後れ毛が、春のそよ風に頼りなく揺れていた。
「あのひと、
私たちは恋からはじめましょうね、と仰ったのですよ」