先生の愛人になりたい。【完】

 それは、些細なきっかけだった。

 放課後の廊下、偶然のすれ違い。
 彩花が、私と水無瀬先生が話している場面をまた見たらしい。
 距離が近かったのか、あるいは──私の目が、何かを物語っていたのかもしれない。

 翌日、学年主任の大西先生に呼び出された。

 別室に案内されると、そこには彩花の姿もあった。
 彼女は目を伏せたまま、口を閉ざしていた。

「本宮。単刀直入に聞く」

 大西先生の声は低く、冷静だった。

「水無瀬と、お前はどんな関係なんだ?」

 その瞬間、心臓が止まりそうになった。



 「どういう、関係……って、何の話ですか?」

 私の声は震えていた。誤魔化そうとすればするほど、息が苦しくなる。

「ここで嘘をついても、後で全部バレる。言いたくなければ、それでも構わない。ただし、これは“調査”の一環だ」

 “調査”──その言葉が現実味を帯びて、頭に響いた。

 ちらりと横を見ると、彩花が小さく唇を噛んでいた。

 ──彼女は、何かを話したんだ。
 でも、それは“断片”に過ぎない。

 なのに、こんなにも簡単に私たちは追い詰められてしまう。

「私と水無瀬先生は……ただ、勉強を教えてもらってただけです」

 ぎりぎりの声で、私は答えた。

「そうか」

 大西先生は、それ以上は何も言わなかった。
 ただ、こちらをじっと見つめ、無言の圧力を与えていた。



 放課後、私はスマホを取り出してすぐに先生に連絡した。

「呼び出されました。気づかれかけています」

 返信はすぐに来た。

「もう会うのは、やめよう」

 一瞬、目の前が真っ暗になった。

 文字を読み返しても、意味が変わることはなかった。

「なに、言ってるんですか?」

「俺は教師だ。お前に迷惑はかけられない。これ以上は、危ない」

「じゃあ、この恋は罪なんですか?」

 送信したあと、私は震えていた。
 しばらくして、返信が来た。

「そうかもしれない。だけど、お前を守りたい。それがすべてだ」



 次の日から、水無瀬先生は私に一切話しかけてこなくなった。
 授業中も目が合わない。視線さえも避けられている気がした。

 私は何度もメッセージを送った。でも、既読はついても返事は来なかった。

 苦しかった。
 まるで、自分だけが取り残されたようだった。



 ある日、放課後の昇降口で、彩花に声をかけられた。

「……本宮さん、ごめんね」

 彼女の目は、本当に悲しそうだった。

「私、言うつもりじゃなかった。でも……先生が、あなたのことを守るために、“一度距離を取ろう”って言ったのを聞いて……」

 私は、一瞬息が止まった。

「……先生と、話したの?」

「偶然、職員室の前で……。そしたら、先生の声が聞こえてきて。“俺が悪い。彼女は関係ない”って……」

 私はその場に座り込みそうになった。

 先生は──やっぱり私を守ろうとしていた。

 だから、あんなにも冷たくしたんだ。

 それがわかった途端、涙が止まらなくなった。



 夜、私はまたメッセージを送った。

「会って話したいです。10分でもいい。黙っていてもいい。そばにいたい」

 返事は、30分後に届いた。

「明日、夜9時。図書館の裏に来て」



 その場所は、昔ふたりで雨宿りしたことのある場所だった。

 翌日の夜。制服のまま、自転車を走らせてそこへ向かった。

 先生は、先に来ていた。

「……よく来たな」

「来るに決まってるじゃないですか」

 私たちは、互いに一歩ずつ近づいて、ついに抱き合った。

「……俺は、お前の人生を壊すわけにはいかない」

「壊れてもいい。私は、先生のせいで壊れるなら、きっと後悔しない」

「それでも……俺は教師なんだ」

「……私は1人の女です。だから、貴方を愛してるんです」



 その言葉に、先生は黙った。

 静かに、ただ強く、私を抱きしめてくれた。

 涙が、服の肩に染み込んでいくのがわかった。

 ふたりとも、どこにも行けなかった。
 ただ、愛し合って、抱き合って、それでも何も変えられなかった。



 その夜。

 私は帰り道に、ふと思った。

 ──この恋は、やっぱり“罪”なのかもしれない。
 でも、だからといって、やめる理由にはならなかった。

 私たちは確かに、間違っている。

 でもそれ以上に──本気だった。