先生の愛人になりたい。【完】

 朝の光が、教室の窓から差し込んでいる。

 それは、何もかもが“普通”のように見える景色。
 でも、私の中では、もうその“普通”が少しずつ崩れ始めていた。

 先生と、あのキスをしてから──世界がゆっくりと傾き始めた。



 最近、クラスメイトの視線を感じることが増えた。

 「未来、また水無瀬先生と話してたでしょ?」
 「やけに仲良くない?」
 「水無瀬先生って、彼女いないのかなぁ……あ、未来はどう思う?」

 そんな風に聞かれるたび、私は平然を装って笑っていた。

 「えー?そういうんじゃないってば」

 でも、内心は焦っていた。
 “バレてはいけない”──それが、心の奥底に常に渦巻いていた。



 ある日の放課後。

 私は図書準備室に急いでいた。
 廊下を歩く足取りも、だんだんと自然ではいられなくなっていた。

 そのとき、背後から声をかけられた。

「……本宮さん?」

 振り返ると、そこには、同じクラスの綾瀬 彩花が立っていた。

 彩花は、クラスで少し浮いた存在だった。大人しくて、いつも本を読んでいる。人との距離感を大切にするタイプ。だから、まさか彼女に声をかけられるとは思っていなかった。

「ごめんね、急に。……最近、水無瀬先生とよく一緒にいるよね」

 一瞬、心臓が止まりそうになった。

「え、え? あ、うん……勉強教えてもらってるだけだよ?」

「……そう。別に、悪いことしてるわけじゃないって思ってるなら、それでいいんだけど」

 彩花の目は、どこか静かで、冷静だった。

「でも……秘密って、壊れやすいから」

 その言葉を最後に、彩花は歩き去った。

 私はその場で立ち尽くしていた。



 その夜、私は先生にメッセージを送った。

「もしかしたら、誰かに気づかれたかもしれません」

 すぐに、返信が来た。

「詳細は明日。慎重になろう。図書準備室はしばらく使わない」

 その短い文章に、先生の焦りが滲んでいた。

 私も、スマホを持つ手が冷たくなっていた。



 次の日。

 先生はいつも通り、教室に現れた。

 でも、私とは一切目を合わせなかった。

 黒板に文字を書く手、資料をめくる指先。
 それらは何も変わっていないはずなのに、距離だけが冷たく感じた。

 授業が終わったあとも、先生はさっと教室を出ていった。

 私の胸の奥に、言葉にできない不安が広がった。



 放課後。私はこっそり職員室を訪ねた。

 すると、先生が少し驚いたような顔でこちらを見た。

「……どうした」

「先生……話、したいです」

「……他の先生もいる。今日は……やめとこう」

 静かに、でもはっきりとそう言われた。

 心の中で、なにかがパキンと音を立ててひび割れた気がした。

 でも、私は笑った。

「……わかりました」

 先生は、すまなそうに目を伏せた。



 それから数日間、私たちはほとんど会話をしなくなった。
 放課後も別々に過ごした。

 私が話しかけても、先生は「あとで」と言って席を立つ。
 気づかれないための配慮だと、頭ではわかっていた。

 でも、心はついていかなかった。

 “好き”は、こんなに孤独なんだと知った。



 ある日の朝。

 教室に入ると、彩花が静かに私の隣に座ってきた。

「……本宮さん」

「なに?」

「私は……黙ってる。だから、安心して」

 その声は優しかった。でも──その優しさが、怖かった。

「……ありがとう」

 私は、それしか言えなかった。



 その日の放課後。

 職員室のドアが開いたとき、先生は驚いた顔をした。

「本宮……」

「もう、我慢できませんでした」

 私は強く、だけど震える声でそう言った。

「先生に……会えなくて、さみしかったです」

 先生はしばらく何も言わず、資料に目を落としたままだった。

 でも、ゆっくりと立ち上がり、ドアの鍵を閉めた。

「……10分だけな」



 ふたりだけの、職員室。

 誰にも見られないように、誰にも聞かれないように。
 私は、先生の胸の中に飛び込んだ。

 先生の手が、私の背中に回る。
 その腕の強さに、私は涙をこぼしそうになった。

「……バカだな、お前は」

「先生が、距離を取ろうとするから……」

「仕方ないだろ。お前が誰かに疑われたら、全部終わるんだぞ」

「……私は、それでもいいって思ってます」

「だめだ。俺が、守る」

「……それが、いちばんつらいんです」



 そのとき、ふたりの間に、絶望と幸福が同時に流れていた。

 離れることも、進むこともできない関係。
 でも、繋がっていたいと願ってしまう。

 この気持ちはもう──止められなかった。



 数日後。

 学年主任の大西先生が、職員会議で生徒指導について厳しく言及したという噂が流れた。

 “教師と生徒の不適切な関係”というワードが、妙にリアルだった。

 私は、その言葉に背筋が凍った。



 夜。

 私は再び先生にメッセージを送った。

「私、もう壊れそうです」

 しばらくして、返事が届いた。

「今夜、駅前のファミレスで会えるか?」



 制服のまま、ファミレスの個室ブースに入った私。

 数分後、先生が私服で現れた。

 誰もいない時間帯。店員の視線も気にならない。

「……ありがとう、来てくれて」

「お前の声、聞きたかった」

 私たちは、ただ手を繋いだ。言葉よりも、そのぬくもりが欲しかった。

「卒業まで……あと半年」

 先生が言った。

「それまで、絶対にバレずにいよう」

「はい。でも、バレたら……?」

「そしたら……俺は教師を辞める」

 先生の声は、静かだった。でも、それは本気の声だった。

 私は、泣いた。

 だって、先生がそこまで思ってくれていることが、苦しいくらいに嬉しかったから。



 夜のファミレス。

 ふたりだけの、静かな誓い。

 それは、どこまでも切なくて、どこまでも愛しかった。