先生の愛人になりたい。【完】

夜の職員室で、私たちは確かに「一線」を越えたわけじゃない。

だけど、心はとっくに踏み越えていた。

先生の手が、私の手を握り返したあの瞬間から──

私は、もう後戻りなんてできなくなっていた。



 その夜、私たちは少しだけ話した。いや、話そうとした。でも、言葉にできない感情の方が多すぎて、沈黙の時間ばかりが流れた。

「……帰るか」

 先生が立ち上がって言った。
 私は黙って頷いた。

 昇降口までの帰り道、私たちは隣り合って歩いたけれど、手はもう繋がなかった。

 でも、十分だった。
 心は、確かに隣にあったから。



 月曜日の朝。学校はいつも通り、日常のリズムを刻んでいた。
 友達の声、チャイムの音、先生たちの挨拶。全部、昨日と変わらない。

 だけど私の中では、なにかが変わっていた。
 胸の奥がざわざわする。
 どこを見ても、先生を探してしまう。

 そして、2時間目の現代文の授業。

 教室に入ってきた先生は、昨日と同じ顔で、いつも通りに黒板に向かっていた。
 それが少し、悲しかった。

 でも……同時に安心した。

 先生は、ちゃんと“教師”を続けてくれている。
 私が“生徒”でいる限り、その関係を崩さないでいてくれる。

 それはたぶん、優しさだった。



 放課後。

 私はまた、教室に残った。
 黒板消しを片付け、机を整えながら、先生が来るのを待っていた。

 すると、ドアが開いた。

「まだいたのか」

 昨日と同じ言葉。

「はい」

「……ちょっと来い」

 え?と思ったけれど、逆らう理由はなかった。

 私はカバンを持ち、先生のあとをついていった。



 行き先は──図書準備室だった。

 生徒はほとんど立ち入らない、鍵のかかった小部屋。
 本の資料や蔵書の整理がされていて、薄暗く、静かだった。

 先生が鍵を閉める音がした。

 私の心臓は、早鐘を打っていた。

「ここ、なら……誰も来ない」

 先生はそう言って、私から少し離れた場所に腰を下ろした。

「昨日のこと……後悔してないか?」

「してません。むしろ、嬉しかったです」

 私は即答した。

 すると、先生は息を吐いた。

「……俺は、正直怖かった。教師としてじゃなく、人間として。お前を……抱きしめてしまいそうだった」

 その言葉に、喉が詰まった。

「先生がそう思ってくれただけで……十分です」

「本宮」

「……でも、もし、先生がその一歩を踏み出してくれたなら……私は、止まりませんでした」

 沈黙が、部屋を包んだ。

 私たちは、たぶん同じ気持ちだった。



 それからというもの、私と先生の“秘密の時間”は、少しずつ増えていった。

 放課後、誰もいない図書準備室。
 何気ない会話。手の温もり。視線の交差。
 キスも、まだしていない。触れることすら、指先の数秒だけ。

 それでも、私たちの関係は、確かに“普通”から外れ始めていた。



 ある日、私が小さく笑うと、先生が言った。

「お前って、笑うと子供っぽいな」

「……失礼ですね。もう17ですよ」

「17はまだガキだ」

「じゃあ、大人って、どういうものですか?」

「……そうだな。自分の気持ちに責任を持てる奴かな」

「じゃあ、私、大人です。今のこの気持ちに、ちゃんと責任持ってますから」

「お前……」

「先生を好きなこと、後悔しません。たとえ、誰かに何を言われても」

 先生は苦笑いした。そして──

「そんな目で見んな」

「どんな目ですか?」

「……俺を壊す目だよ」

 先生の目が、私を見つめたまま、逸れなかった。

 そのとき、私は確信した。

 先生も、私を──好きなんだ。



 その夜。

 私たちは、初めて唇を重ねた。

 図書準備室の、積み上がった資料の隙間。

 ほんの短いキス。けれど、何もかもが詰まったキスだった。

 唇が離れたあと、先生が囁いた。

「……ごめん」

 でも私は首を振った。

「謝らないで。だって、先生も……欲しかったんでしょう?」

「……ああ」

 その声に、私は震えた。



 それからの毎日が、嘘みたいだった。

 誰にも言えない関係。
 でも、それが甘くて、苦しくて、毎日が夢のようだった。

 友達と笑うふりをして、昼休みに先生の視線を探す。
 誰もいない教室で、先生のメモだけを胸にしまう。

 何気ない会話の中に、ふたりだけにしか通じない言葉がある。
 視線一つで、今日の機嫌さえわかってしまう。

 それが、幸せだった。

 同時に、いつか終わってしまう予感もあった。



 ある日、先生がこう言った。

「卒業まで、あと一年もないんだな」

「……そうですね」

「それまで、俺たちは“秘密”を守らなきゃいけない」

「はい。でも……卒業したら」

「……卒業したら?」

「私はもう、先生の“生徒”じゃなくなります」

 私の言葉に、先生は何も答えなかった。

 でも、黙って私の髪を撫でてくれた。

 その手の優しさだけで、私は十分だった。



 けれど──世界は、そんなふたりに優しくなかった。