先生の愛人になりたい。【完】

水無瀬先生の視線が、私の奥にあるものを見透かしていた。

 「それ以上は、言うな」と言われた日のことを、私は何度も思い出していた。
あのときの先生の瞳には、優しさと恐れ、そして──痛みのようなものが宿っていた。

 それでも、私の気持ちは止まらなかった。

 むしろ、抑えれば抑えるほど、先生への想いは膨らんでいった。歯止めがきかなくなったのは、たぶんその日からだった。



 放課後、また私は教室に残っていた。

 理由なんてもういらなかった。ただ、先生と話せる時間が、心の支えになっていた。

「先生、コーヒー飲みますか?」

 コンビニの袋を掲げながら、職員室の前で声をかける。

 水無瀬先生は少し驚いた顔をして、手元の資料から視線を上げた。

「……こんなこと、してる暇あったのか?」

「今日、模試も終わったし、もう予定ないです」

 笑ってみせると、先生は静かにため息をついた。

「ありがとな。でも、お前が無理する必要はない」

「無理なんかしてませんよ。私、先生にお礼がしたかっただけですから」

「……お礼?」

「先生と話す時間が、今の私の一番の救いです。だから」

 そう言って、コーヒーの缶を先生の机に置く。

 先生はそれを見つめながら、なにも言わなかった。ただ、缶を静かに手に取り、プルタブを引いた。

 プシュッという音が、静かな職員室に響いた。

「美味しいな、これ」

「でしょ?私も好きな味なんです」

 “私も”。
 その言葉に、意味を込めたのはきっと私だけだった。



 それから数日後。

 私のスマホに、知らない番号から着信があった。

 ためらいながら出ると、懐かしい声が聞こえた。

「……お母さんの携帯から番号聞いた。元気にしてるか?」

 それは、別居中の父の声だった。

 私が中学の頃、父は家を出た。理由は母との不仲。両親は表向き「距離を置いているだけ」と言っていたけれど、もう修復する気がないのは明らかだった。

 私は母に従って、父とは一切連絡を取らないようにしていた。

 でも、父は今さらになって、「一度会いたい」と言った。

 私はどうしていいかわからず、その夜、先生に話した。



「会ってもいいと思いますか?」
 私はぽつりと聞いた。

 先生は黙って考え込んでいた。机の上に並ぶ教材の中で、私の存在だけが異質だった。

「……自分の気持ちに素直になれ。会いたいなら、会えばいい。会いたくないなら、無理しなくていい」

「……もし、私が先生だとしたら、会いましたか?お父さんと」

「……会った。でも、もう他人だったと思うよ」

 その答えに、私はなぜか胸が痛くなった。

 先生も、何かを失った人なんだと思った。

「……先生、私のこと、嫌いにならないでくださいね」

「は?」

「私、先生に依存してる気がします。自分でもわかるんです。止められない」

 先生は立ち上がり、私の前に来た。そして、少しだけ屈んで、私と目線を合わせた。

「本宮。俺はお前の支えにはなれるかもしれない。でも、それ以上には……」

「なってくれないんですか?」

 私は静かに言った。先生の瞳が揺れた。

「お前が言ってることの意味、わかってるのか?」

「わかってます」

「それでも……?」

「はい」

 しばらくの沈黙が流れた。

 そして、先生は顔を背けた。

「……バカだなお前は」

 優しい声だった。拒絶ではない。諦めでもない。
 それは、危うい温度を孕んだ、答えだった。



 日曜日、父と会った。

 カフェのテーブル越しに座る父は、以前よりも老けて見えた。

「大人になったな、未来。……高校、楽しいか?」

「……普通」

 答える私の声は冷たかった。

 父は、それでも微笑んだ。

「また、会えるといいな」

「……わかんない」

 正直、父に対する感情はよくわからなかった。ただ、家族ってなんだろう、と強く思った。

 帰り道、自然とスマホを開き、先生にメッセージを送っていた。



「会ってきました。疲れました。今どこですか?」

 数分後、既読がつき、返信が来た。



「まだ職員室。明日報告してくれればいい」

「今、会いたいです」

 送ったあと、指が震えた。でも、もう止められなかった。

 返事がくるまでの時間が、永遠のように感じた。



「……じゃあ、少しだけ」



 夜の学校に、私は向かった。

 裏門から入ると、昇降口はすでに施錠されていた。先生がこっそり開けてくれていたのかもしれない。

 薄暗い廊下を歩いて、職員室の前に立った。

 扉を開けると、先生が一人、机に向かっていた。

 私を見ると、少し驚いたように目を見開き、そしてため息をついた。

「本当に来たのか……」

「会いたかったから」

「……バカ」

 先生は立ち上がり、私の肩を掴んだ。

「本宮、お前な……」

「私、先生のことが好きです」

 涙が込み上げるのを、もう止められなかった。

「ずっと、ずっと好きでした。苦しいくらい」

「……ダメだ。俺は教師だ。お前は生徒だ」

「知ってます。でも、それでも……」

「……っ」

 先生の手が、私の肩から離れた。

 私はその手を、自分の指で握り返した。

 先生の指は、微かに震えていた。

「この手を、離したくないです」

 沈黙。誰の声もない夜の学校で、ただ、私たちだけの呼吸が響いていた。

 そして――先生は、私の手を握り返した。



 それが、全ての始まりだった。

 罪の始まりであり、救いの始まりでもあった。