先生の愛人になりたい。【完】

 春のキャンパスは、やわらかい光に包まれていた。
 通り過ぎる学生たちの笑い声、風に揺れる木々の音、どれもが“これから”を予感させる。

 私は今、教育学部の2年生になった。

 大学生活にも慣れ、日々、教育実習に向けた準備に追われている。

 子どもたちとどう接するべきか、どう寄り添うべきか。
 「教えること」と「導くこと」の違いに、少しずつ気づき始めた。

 きっかけは、いつだって、あの人だった。



 ある日、私は担当教授から声をかけられた。

「本宮さん、次の合同研修会、引率教師として来る“外部講師”が、あなたの志望分野のスペシャリストらしいよ」

「……そうなんですか?」

「うん。国語教育の分野でちょっと有名な人みたい。名前は……ああ、そうだ、水無瀬先生って言ったかな」

 その名前を聞いた瞬間、胸の奥が強く揺れた。

 記憶の奥で、ずっと響き続けていた名前。

 消したくても消えなかった名前。

 ずっと、私の“先生”だった、あの人の──名前。



 研修当日。

 私は会場の後方、誰にも気づかれない位置で座っていた。

 壇上に現れたのは、背筋を伸ばしたスーツ姿の男性だった。

 数年前よりも大人びたその横顔に、確信する。

 ──先生だ。

 この広い世界のどこかで、ちゃんと自分の道を歩いていたんだ。
 そして今、同じ「教師」という世界で、ふたたびすれ違った。

 それだけで、胸がいっぱいだった。



 講演が終わっても、私は声をかけることができなかった。

 “今の私”でなければ、会いたくなかったから。

 もっと胸を張って、「先生、私もちゃんと大人になりました」って言える日まで。

 でも、すれ違いざま、彼と視線が合った気がした。

 一瞬、驚いたように目を見開き、次の瞬間、ほんの少しだけ、微笑んだ。

 きっと──気づいていた。
 私が、そこにいたことを。



 手元のノートに、私は小さく書き残す。

「先生、また会えるように、私、がんばるね」



 それはきっと、“恋”ではなくなっていた。

 けれど、心の一番深いところで、あの人はずっと私の“光”だった。

 この道を選んだ理由。
 この生き方に誇りを持てた理由。

 それは、あのとき本気で誰かを想って、愛して、傷ついて、乗り越えたからこそ。



 風が吹いた。桜が舞った。

 そのひとひらがノートに落ちる。

 私の胸に、やわらかく着地する──未来への予感だった。

また、あなたに会える未来まで。




──先生の愛人になりたい。【完】