先生の愛人になりたい。【完】

 先生がいなくなってから、季節は静かに流れていった。

 学校には、新しい数学の教師が赴任した。
 若くて爽やかなタイプで、クラスの女子からはそれなりに人気もあった。

 でも、私は一度も、その先生の目をちゃんと見られなかった。

 黒板に漢字を書く姿を見ても、解説する声を聞いても、あの人と比べてしまう。

 無意識に、“この人は私を愛してくれない”と、思ってしまう。



 クラスの中では、私は「ちょっと元気ない子」として認識されていた。

 友達も、それなりに心配してくれたけれど――誰にも話せなかった。

 あの恋のすべてを。

 あの夜のことも、あのキスの温度も、あの涙の意味も。

 誰にも分かってほしくなかった。

 誰かに軽く「大変だったね」なんて言われたら、きっと私は壊れてしまう。



 ノートの隅に、「先生」と書きかけては消した。

 図書室であの場所に座っても、もうあの姿は見えない。

 駅のホームに立つたび、同じ景色を見ても、隣には誰もいない。

 どこにいても、何をしていても、私は“あの人”を探していた。



 ──でも、時間は、残酷なくらい、すべてを上書きしていく。

 三年生になった私は、進路について本気で考え始めていた。

 周囲が受験モードに入っていくなかで、私だけが取り残されている気がして、焦りだけが募った。

 そんなとき、担任の大西先生に呼び出された。

「本宮、進路希望、まだ未提出だけど……決まらないのか?」

「……正直に言うと、わからないんです。何がしたいのか、何になりたいのか」

「それでも、一つだけ“これだけは譲れない”ってこと、ないか?」

 私は迷った。
 でも、しばらくして、ぽつりと口にした。

「……誰かの、心に残る仕事がしたいです」

 大西先生は、少し驚いたように目を細めた。

「教師、もしくはカウンセラーとか?」

「……教師、ですか……」

 思わず、胸が苦しくなった。

 けれど、心の奥で、確かに何かが灯った気がした。



 その日の夜。

 私は、あの人のことを初めて“思い出”として抱いた。

 いつまでも“今のこと”のように胸に抱えたままだったけど──もう、前を向かなきゃいけない。

 それが、あの人と交わした“最後の約束”のような気がしたから。



 それから私は、先生がかつて使っていた問題集を引っ張り出してきて、勉強を始めた。

 漢字やことわざの意味を一つひとつ丁寧に辿るたび、あの人の声が心の中に蘇った。

 「この漢字はな、ただの文字じゃない。人が“証明”した“想い”だ」

 その言葉の意味が、ようやく分かるような気がした。



 数ヶ月後。

 私は、教育学部のある大学を志望することを決めた。

 家族は驚いたが、全力で応援してくれた。

 「未来なら、絶対に良い先生になる」

──母がそう言ってくれた。



 あの人のように。

 誰かの心に触れる先生に、私もなりたいと思った。