私は、先生の胸に顔を埋めたまま、何も言えなかった。
逃げられないって分かっていた。
そんな生き方が許されるほど、私たちは無敵でもなければ、無知でもなかった。
それでも、心のどこかでは「それでもいいじゃん」って、声が叫んでいた。
「ただ、一緒に居たかっただけなのに──」
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朝方。
私は目を覚ました。
隣にいたはずの先生の姿がなかった。
「……先生?」
部屋の外に出ると、先生はキッチンでコーヒーを淹れていた。
「おはよう」
「……おはようございます」
何気ない挨拶なのに、胸の奥が痛かった。
「これが最後の朝になるなって思って」
先生はカップを私に手渡しながら、優しく笑った。
でも、その笑顔はひどく悲しかった。
「本当に……行っちゃうんですか」
「うん」
短い返事。迷いのない声。
「今日、正式に退職届を出す。……それで、終わりだ」
⸻
そのあと、私たちは静かに朝食をとった。
パンと卵と、温かいスープ。
何気ない食事だったのに、ひとつひとつの味が胸に沁みた。
「先生、これからどうするんですか」
「少し休んでから……実家に戻るつもりだ」
「先生の……地元、遠いんですか」
「ああ、電車で4時間くらいかな」
「……もう、会えなくなるんですか」
「……そうなると思う」
分かってた。
分かってたけど、言葉にされると、こんなにも痛い。
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「じゃあ、……もう“生徒”じゃないってことですよね?」
私は目をそらさずに、先生を見つめた。
先生も、同じように私を見返した。
「そうだな。……もう、何の肩書きもない」
「じゃあ……」
私はそっと、先生の手を取った。
「“恋人”になってください。最後に、ちゃんと、恋人として、好きって言わせて」
先生の目が揺れた。
「……本宮」
「名前で呼んで。もう、先生じゃないでしょ?」
「……未来」
久しぶりに聞いた名前。
この人の口から呼ばれるたびに、心がほどける気がした。
「……好き。ずっとずっと、好きでした。出会ったときから、ずっと」
先生は、ぎゅっと私の手を握り返してくれた。
「俺も……愛してる。未来」
その言葉で、私はもう泣き崩れた。
嬉しくて、悲しくて、愛しくて、苦しくて、息ができなかった。
⸻
朝の光の中で、ふたりは最後のキスを交わした。
長く、静かな、唇の温度。
それが、永遠の別れになることを、ふたりとも分かっていた。
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駅まで、先生が送ってくれた。
電車が来るまでの数分間、私たちは何も話さずに手を繋いでいた。
まるで、最初に戻ったみたいだった。
始まりも、終わりも、こんなふうに静かで、切ない。
電車がホームに入ってくる音が聞こえたとき、先生が小さく呟いた。
「……生まれ変わっても、また君に出会いたい」
その一言で、涙が止まらなくなった。
「私も……先生を見つける。必ず」
そして、私は電車に乗った。
扉が閉まる前、先生は最後にこう言った。
「愛してる。……だから、さよなら」


