先生の愛人になりたい。【完】

 先生のアパートに着いたとき、私はもう涙で前が見えなかった。
 ドアの前に立っても、チャイムを押す勇気が出なかった。

 けれど、指先が勝手に動いて、ボタンを押していた。

「──……」

 ドアが開くまでの数秒が、何十年にも感じられた。

 そして、ドアの向こうに現れた先生は、まるで別人のように痩せていた。
 髪は少し伸びて、目の下には深く影が落ちていた。

「……来たんだな」

 その一言で、また涙があふれた。

 私はなにも言わず、先生の胸に飛び込んだ。

 先生の腕が、ゆっくりと、でも確かに私の体を包んだ。

「……ずっと、待ってた」



 先生の部屋は、変わっていなかった。
 本棚には参考書がずらりと並び、机の上にはまだ赤ペンが置かれていた。

 けれど、段ボールがひとつ、ぽつんと置かれていた。

「……やっぱり、本当に辞めるんですね」

「うん。……もう決めた」

「私が原因、ですよね」

「違う」

 即答だった。

「お前は、俺の“救い”だった。……誰にも理解されなくても、お前だけが俺をまっすぐ見てくれた」

 私は唇を噛んだ。

「でも、先生は全部失うことになって……私には、何もできなかった」

「違うって。……お前がいたから、最後まで踏ん張れたんだ。感謝してる。……ほんとに」



 私たちは、互いの存在だけを頼りに、あの夜を過ごした。

 手を握りしめて、時々抱き合って、話しながら泣いて、また笑って。
 時間が止まればいいと、心から思った。

「もし、あのとき君に出会ってなければ……俺は、きっと、何も感じないまま、ただの教師として生きてたんだと思う」

「私は、先生に出会えなかったら、誰も本気で好きになれなかった」

 こんなにも愛しているのに。

 こんなにも求め合っているのに。

 どうして──緒にいられないのだろう。



 夜が更け、私は先生の隣で毛布にくるまりながら、目を閉じた。

 先生の心臓の音が、すぐそばにあった。
 それを聞いているだけで、世界中の苦しみが消えてしまいそうだった。

「……ねぇ、先生」

「ん?」

「逃げちゃおうか、ふたりで」

「……」

「学校も、家も、ぜんぶ置いて。名前変えて、知らない町で、もう一度やり直すの」

 先生は、しばらく黙っていた。
 でも、私の髪を撫でながら、優しく言った。

「それが本当に幸せかどうか、……わからない」

「私は、先生と一緒にいられるなら、どこでも幸せです」

「ありがとう」

 先生の声は、かすれていた。

「……でも、俺は、自分のしたことを逃げたくないんだ」