君の世界は眩しかった。【完】

「……うん」

それだけを返すのが、精一杯だった。

美術室の光は、普段よりやけに柔らかくて、彼女の姿をぼんやりと縁取っていた。
逆光で顔がよく見えないのに、なぜか笑っているのだけはわかった。

「すごく綺麗。なんか、見てると……胸がぎゅってなる」

そう言いながら、彼女は絵の前にしゃがみこんだ。
描いていたのは、窓際に置いていたガラス瓶と、その中の白い花。

“気に入った”と口にしたその言葉が、僕の胸に刺さって動けなくなる。
たぶん──こんなふうに褒められたのは、初めてだったから。

「名前、あるの?」

「……わからない」

僕の答えに、彼女はまた笑った。

「じゃあさ、勝手に名前つけてもいい?この花に」

「……うん」

「んー……“しろいの”とか、“つよい子”とか……」

「…ダサいね」

「え、ちょっと失礼じゃない?」

くすくすと笑う声が、美術室の空気をやさしく揺らした。

「……名前つけたいの?」

「うん。だって、名前がないのって、寂しくない?」

その言葉に、僕は少しだけ、視線を逸らした。

名前がない、って寂しい。
その言葉が、自分に向けられたみたいで、少しだけ胸が苦しかった。

「じゃあ、“ミモザ”ってどう? 本当は違うかもしれないけど……
ミモザの花言葉って、“感謝”とか“秘密の愛”なんだって。素敵でしょ」

秘密の愛。
彼女は何も知らずに言ったその言葉が、やけに印象に残った。

「……君の名前は?」

「え? あ、そっか、名乗ってなかったね。私は──」

その瞬間、校内放送が響いた。

『二年三組の幸野谷一花さん、職員室まで来てください』

彼女は「あーもう!」と小さく口を尖らせて、でもすぐに笑った。

「じゃあ、またね。あ、絵の名前、勝手に“ミモザ”にしとくから!」

そう言って、美術室を駆け出すように去っていった。

残された僕は、まだ彼女の名前を知らないまま、
ぽつんと残った椅子を見つめていた。

“ミモザ”。
その名を、忘れない気がした。