過去に戻れるボタンの話。

 その瞬間、部屋の電気が消え、クラシック音楽が流れ始めた。「過去に戻るんだな」直感的に思う。「もう一度人生をやり直せるんだ」そんな前向きな気持ちと、ほんの少しの不安を抱き目を閉じた瞬間、「ビーッ、ビーッ、ビーッ」激しい警告音が鳴り始めた。「アナタハ ホントウニ ソレデイイノデスカ」女性の機械的な声が流れる。「いいよ、それで。それがいい」反射的に答える私がいた。

 真っ暗な部屋に、機械的な女性の声が響き、テレビに映像が流れる。18歳の8月以降の記憶だった。大学で出会った友人たちとのとりとめもない会話、サークルの仲間と過ごした日々、旅行、社会人になって積み重ねた時間、初めての会食でうまく商談がまとまった日の帰り道、上京した日の夜景、同期との会話、同僚とのやり取り、広告賞を受賞した日のこと、祝賀会、何度も何度も広告案を出し、ようやく受注した案件。彼氏との旅行やデート。これまで重ねてきた時間が、映像となって流れていく。もちろん楽しいものばかりではなかったが、また涙が流れていることに気付いた。

 「これまでの記憶を保持したまま、過去に戻ることはできません。これと同じ人生を歩むこともできません。18歳の8月以降に出会った人とは、もう二度と会うことはできません。」機械的な声が教えてくれる。