「……華鈴様、今日はもう、ご自宅へ戻りましょう。これ以上、体に無理をさせるわけにはいきません」
地下の隠し部屋で、華鈴は息を整えながらも、ノートパソコンを開いたままだった。
スケジュール表には、“祖父様との定例会議”という文字が血のように浮かんでいた。
「……このままじゃ、また“価値がない”って言われる」
「“価値”であなたを測る人間の言葉など、聞く必要はありません」
前の言葉は穏やかだったが、その奥底に、烈火のような怒りがあった。
「前……」
「俺に任せてください。あなたは、ただ呼吸をしてください。それだけで、充分なんです」
彼の手が、彼女の肩に触れた瞬間――
ドアが、ノックもなく開かれた。
「随分と……甘ったるい時間を過ごしているようだな」
黒い和服に身を包んだ老人が立っていた。
鋭く冷たい目。黒瀬龍臣。
「祖父様……なぜここに」
「前から報告が途絶えていたからな。まさか、このような“なれ合い”が原因とは……失望したぞ、華鈴」
前は即座に立ち上がり、華鈴をかばうように一歩前へ出た。
「私の判断で療養を優先させました。責任は、私に」
「お前のような駒が、“判断”など口にするな」
龍臣の声は低く、しかし誰よりも威圧的だった。
「華鈴、お前にはこの国の“秩序”を守る義務がある。喘息だの情だの、そんなものは切り捨てろ」
華鈴は無言で唇を噛みしめた。
その視線の奥には、怯えと、しかし消えない意志の光が同居していた。
その夜。
前は屋敷の裏手にある古い書庫へと足を運んでいた。
龍臣の秘書が管理する“黒の手帳”――黒瀬家に関わる機密情報や取引記録が綴られている禁断の文書。
「……ここから先は、護衛としての一線を超える」
手袋越しに触れた手帳の冷たさが、罪の始まりを告げた。
一方その頃、学園の一条怜は、生徒会室に残された資料の異変に気づいていた。
「……この削除ログ。おかしいな。誰かが華鈴会長の医療記録を――消した?」
そして、鳳条雅の元にも、ある封筒が届いていた。差出人不明。中には、
“黒瀬華鈴は病弱。近く退任の予定あり”という文言が記された匿名の文書。
「……ふざけた真似を」
雅は口元を歪め、冷たく笑った。
そして深夜。
黒瀬龍臣の執務室に、一本の報告電話が入る。
「……はい。華鈴様の護衛、蔭山前が、“黒の手帳”を閲覧した形跡があります」
沈黙の後、龍臣は短く呟いた。
「……始末しろ。あの男は、もう使えん」
静まり返ったリムジンの車内。
窓の外を流れる東京の夜景を、華鈴はぼんやりと見つめていた。
(あの人の目……また“商品”を見るようだった)
祖父・黒瀬龍臣。
尊敬も、憎悪も、恐怖も、すべてが入り混じった存在。
彼の前では、完璧でなくてはならない。
咳ひとつ見せれば、即座に“失格”の烙印を押される。
でも、今の私はもう、演じきれる自信がない。
「……ご自宅に到着いたしました、華鈴様」
前の声で、現実に引き戻された。
「ありがとう、前」
彼の声を聞くと、胸の奥にこびりついた緊張がほんの少しだけ解ける。
唯一、心を許せる存在。けれど――
(前の態度、いつもより、少し……重い)
屋敷の中に入っても、前はあまり目を合わせなかった。
何かを隠しているような、沈黙の時間が続いた。
⸻
深夜、華鈴は書斎にこもっていた。
龍臣から押し付けられた案件。裏社会で揉めている店舗の処理報告書。
息が浅くなっていることに気づきながらも、目をそらしていた。
(ちゃんとやらなきゃ……怒られる。嫌われる……)
そのとき、扉がノックされる。
「華鈴様、少し……お話をよろしいでしょうか」
前だった。珍しく、丁寧すぎる声。
「……どうしたの?」
「実は……“黒の手帳”を、閲覧しました」
「……え?」
その瞬間、華鈴の背筋が凍った。
「なぜそんなことを……危ないって、知ってるでしょう……?」
「……あなたが壊れていくのを、ただ黙って見ていられませんでした」
前の声は震えていた。
「手帳の中には、あなたのお父上とお母上の事故の情報もありました。あれは……事故ではなく、やはり――」
「やめて!!」
思わず声を上げていた。
前が傷つくのが怖かった。
自分のために、命を懸けるなんて――
「……私なんかのために、壊れないで」
華鈴の声が震えた。
「俺にとって、あなたが“なんか”なら、こんな危ない橋は渡りません。……あなたは、俺の“すべて”です」
静かな言葉だった。
でも、その一言で、心の中に張り詰めていた氷が、崩れた。
(ずっと、誰にも弱音を吐けなかった。
でも今だけ、前の前だけは……)
「……怖いの。前がいなくなったら、私、どうなっちゃうかわからない」
「俺は、いなくなりません。絶対に」
前がそっと抱き寄せた。
華鈴は初めて、声を殺して泣いた。
胸に埋めてきた孤独と恐怖が、溢れて止まらなかった。
⸻
その翌朝。
風間樹が緊急連絡を入れてきた。
「……会長。護衛の蔭山前に“始末命令”が出ています。黒瀬龍臣の直轄組織“黒影”が動いています」
華鈴は、迷わなかった。
「……私が守る。前は、私のものだから」
その目は、かつての“裏社会の番人”としての光を宿していた。
