俺は子爵に身分を明かさなかった。
隣国の人間と知られコロニスに引き渡される恐怖もあったが、何より自国を捨てて逃げ出した情けない男だと知られたくなかった。
着のみ着のまま逃げ出したその様子を哀れみ、子爵の邸に使用人として雇ってくださった。
しかし、俺が雇われた数日後にはコロニスがアイダに宣戦布告を行った。
屋敷中、いや国中に衝撃と絶望が拡がった。
オルディアナでもそうだった。
俺は再び訪れた戦争を前に、どうやって逃げ出すかを真っ先に考えていたと思う。
そんな時、子爵と奥様の立ち話を聞いてしまった。
「あの子は部屋に閉じ籠ったきり、出てこないわ…」
「…ああ、気丈に振る舞ってはいたが、死地に赴くことはわかっているだろうからな…。」
「こんなのあんまりよ…」
きっとハナお嬢様のことだ。
剣士として出兵なさると他の使用人が噂していた。
若い娘がかわいそうに…
「短い期間だが、ハナには俺が稽古をつける。
生きて帰る可能性が少しでも高まるように。」
「ええ、お願いします。
リンネットは?魔術の訓練はどうするのですか?」
魔術!?
リンネットお嬢様は魔術が使えるのか!
立ち去ろうとしていたが、職業柄ついその言葉に足を止めてしまう。
「俺は魔術はさっぱりだ。」
「リンネットは魔力があることを認められただけで、何一つ魔術の教育を受けていません。
このままでは王都での後方支援とは言え、リンネットも危険な目に合ってしまうわ!」
「近々、国王陛下が禁書の魔術書を魔術の素質があるものに公開するとおっしゃっていた。」
禁書の魔術書…!?
アイダの魔術はオルディアナにはほとんど情報が流れていなかったが、難解な術式のため使えるものが少ないにもかかわらず、性能はオルディアナと変わらないという噂だ。
しかし…魔術書を禁書扱いするほど何か特別なことがあるのか…?
「国内の指南役を招くのが早いが、この状況で引き受けてくれる魔術師はいないだろう。
その魔術書を頼るしかないな…」
「そんな…」
俺の心臓は身体ごと前進させそうなくらい、大きく鼓動を打っている。
アイダの魔術を知りたい…
国家機密の知識を目にする機会なんて二度とないだろう。
しかし…魔術が使えると知られれば身元を怪しまれる。
オルディアナの人間とわかれば、禁書を見るのは難しいだろう。
最悪処刑されるかもしれない。
葛藤の末、俺は魔術師として好奇心と知識欲を抑えることはできなかった。
「子爵様!リンネットお嬢様の魔術指南役、私にお任せいただけないでしょうか。」
「…セロン!聞いていたのか?
それに、お前魔術が…?」
子爵は初めは驚きと疑いの表情を浮かべるも、すぐに切り替えて冷静に俺を値踏みした。
信じてくれたのかどうかは分からないが、子爵は2つの条件をつけ、俺を指南役に任命した。
1つ目はアイダがある限りアイダに忠誠を誓うこと。
2つ目はリンネットお嬢様が傷ついたり人を傷つける魔術は教えないこと。
その条件を守ることを約束し、俺は子爵から禁書の魔術書を受け取った。



