気がつけば出発の朝だった。
あの日から1週間、私の心臓は常につぶれそうに痛み続けている。
剣一本で大佐まで出世した父から直接指南を受け、
無我夢中で剣を振るった。
あの日のギル様とギル様のお父様への挨拶を最後に、カーテシーも、令嬢としての微笑みも、美しく見える姿勢も、やっていない。
私の15年間の努力は何一つ役立たないものになってしまった。
昨晩から荷物をまとめようとしているけれど、
何一つ手に取ることができない。
繊細なレース
毎日使っていた化粧品
誕生日プレゼントの宝石
私の部屋にあるすべて、戦争に必要と思えるものはなかった。
結局お父様からいただいた剣と、少ない着替えをつめたカバンを持って部屋を出た。
外には馬車が待っており、屋敷の使用人たち、お母様、お父様、リン、そしてギル様が揃っていた。
「ハナ、愛してるわ。
戦功などいりません。
どうか、どうか無事に帰ってきて。」
「私も愛しています、お母様。」
大国との戦争。負ける可能性の方が高い。
負ければ無事に帰ることなどありえない。
「ハナ、やはりお前には剣の才能がある。
剣を交えてわかった。」
「ありがとうございます。お父様。」
なにも嬉しくない褒め言葉…
「王都の訓練所で3ヶ月訓練を受けなさい。
その後私の軍隊の中の小隊に入ってもらう。」
「はい」
あと3ヶ月の命と余命宣告を受けた気分だ。
「必ず会おう。私たちで国を救うのだ。」
「はい…」
お父様の顔を見上げると、瞳が潤んでいるのが分かった。
初めて見る…お父様でも涙ぐむのね…
当然ね、人間だもの…。
私のお父様だもの…。
「愛している。ハナ。
お前を誇りに思う。」
そんなこと言ったって…
…
もう、いい。
心の中で悪態をつくのはやめよう。
ここにいる誰も悪くないのだ。
私が行かなければリンが行っていただけ。
私は子供で自分の幸せを優先してしまうけど、それでもリンを戦争に行かせるなんて心の底からイヤだ。
私でよかったとは言わないけれど、
リンでなくてよかったわ。
「ハナ…!」
「リン…」
顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
私は呆れてクスッと笑う。
真っ暗な孤独の中に光がさすように感じる。
「剣を貸して…」
言われるがまま、リンにお父様からいただいた剣を差し出す。
鞘から剣を抜くと、リンは何か文字が書かれた紙を刃を磨くように這わせた。
剣を返してもらうと、不思議と軽くなった感覚がした。
「これは?」
「ハナを守る加護の魔術よ…
そばにいられなくてもハナを守る方法を探したの」
リンは私を力いっぱい抱きしめた。
「…愛してるわ!
私も3か月後に魔術師として王都に行くからっ
ハナの力になる!必ず!」
「ええ、待ってるわ」
最後にギル様を見る。
「ハナ様、私も三月後、リンとともに王都に行き、資金の調達でお力になります。」
「ええ。リンのことよろしくお願いします。」
「もちろんです」
穏やかな眼差しの黒い瞳。
風がなでるさらっとした黒髪。
落ち着く優しい雰囲気なのに商人らしい賢さも持つ。
私の知らない市井や他国の話を、
そして大切な恋心を、教えてくれた方。
私はあなたのことが好きです。
この先もお慕いし続けております。
「…」
身に染みついた所作でスカートの裾を持とうとしてやめた。
私はこれから剣士となるのだ。
幼い頃、父に教わった別の所作を思い起こす。
右手の指を揃え、額にかざした。
「ハナ・セレスティーナ、行って参ります。
皆様のご健康とご武運をお祈りしております。」
愛に溢れた家に背を向け、私は馬車に乗り込んだ。
馬車は走り出し、ゆりかごのように私の身体を揺らす。
王都には明日には着く。
明日からは剣士として頑張るから
今は…今だけは…
「っ、ふぅ…うぅーっ」
1人きりの馬車でこらえた涙が次から次に溢れだした。
令嬢としての、最後の涙だった。
そのときの私は王都でもう一人の運命の相手に出会うことなど想像もしていなかった。



