もう9月も終わり頃だというのに、校舎の中は蒸し暑さがのこっていた。
この前までは冬の訪れを感じさせたのに、ここ数日は夏へ逆戻りしたようだった。
「ねえ、今日遊ばない?」
千穂がぴょんぴょんと鞠のように跳ねながら、楓と私の元に転がってきた。
「いいね、カラオケにしようか。それか涼しいとこ。」
「桂花はほんとに暑いの苦手だね。夏生まれなのに。」
楓は、わははっと盛大に笑い飛ばした。
たしかに、夏は嫌いだ。
せっかく綺麗にセットした髪が汗で崩れるし、リュックは背中が暑くて登下校がしんどいし、教室は濁った空気充満してる気がするし、露出が増えるし、荷物も増える。
いいとこなんて無い。
唯一解せるのは、長期休みがあることくらいだ。
でも、休みの期間はたいてい家から出たくないし、遊びに誘われても毎日会う訳では無いから、暇だ。
やっぱり、夏は嫌いだ。
「てか、桂花委員会じゃないっけ、今日。」
楓がそう言いながら教室の後ろにある掲示板を指さした。
たしかに、文化祭実行委員の最初の招集日が今日だった。
「うわ、さいあく。行かなきゃだ、わたし。」
それを聞いた千穂は「そっかそっかまた今度だね〜」と微笑み、楓は「頑張ってこい。」と親指を立てて口の端をあげた。
せっかく遊ぶのに乗り気になっていた2人に申し訳なさしか出てこなかった。
一言声をかけ、招集場所へ足を向けた。
2人と別れたあとは、それはもうどんよりとした気持ちだった。
委員会決めの時、委員会になんて所属するとつもりもなくて、ただぼーっと窓の外を眺めていた。
余った枠をじゃんけんで負けた人がなるという手段で決定したらしく、当然、その時私は負けたのだ。
同じ委員会の男の子は、大して仲良くもなく、入学して数回しか話したことがないくらい接点がない。
気まずい以外なんでもない。
本当にさいあくだ。
しかも文化祭実行委員は仕事が多い、らしい。
決められた予算の中で自分のクラスの出し物を実現させ、クラスで衣装も決めて、メイクや衣装の許可書を書いて、シフトなどこと細かく時間スケジュールを組みたけなければいけない。
せっかくの高校初文化祭が、裏方仕事だけで終わるのだ。
これ以上にめんどくさいものは無い。
正直憂鬱だ。
結局、日比谷先輩とはあれから何も無くて、およそ1ヶ月、前と同じように見つめるだけの生活になっていた。
トントン拍子になにか進むとは思ってなかったけれど、正直期待はずれだ。
(うわ、蒸し暑、)
召集場所になっていた西校舎の3階にある、大会議室の扉を開けて、更にどんよりする。
たしか、大会議室のある西校舎はエアコンがない。放課後は日光が直射するとかでカーテンを締め切っている。
最悪だ。
本格的に話し合うのはこれが最初だし、今日は長引くだろう。最悪すぎる。
窓に近い席を選び、カーテンの裏から窓を開け、席に着いた。
夏の暑さが残るといえど、放課後はやはり秋らしいすこし冷たい風が頬を撫でた。
(カーテン開けちゃえばいいのに。)
集合時間までは少し時間があるし、机の上に置かれた資料に目を移した。
決定事項がプリントにびっしりと並んでいて目眩がした。
これは本当に今年の文化祭は楽しむより、仕事だけで終わりそうだ。
半分現実逃避を兼ねてぱらぱらとページをめくると、最後のページは実行委員の名簿になっていた。
(そういえば他のクラスの実行委員とか知らないな。顔見知りでも居ればいいけど。)
文字を追っていくと、見覚えのあるあの名前があった。
『2-C 日比谷 千里』。
どくん、と心臓が高鳴った。
先輩も同じ委員会だったなんて。
どうしよう、うれしい。
文化祭は準備が多いんだから、他学年と協力しなければならない場面が多いだろう。
もしかしたら、また、話すことが出来るのかもしれない。
そうしたら、私のことをただの1年生じゃなくて、『私』として覚えてくれるかもしれない。
(……そういえば先輩ってC組なんだ)
C組という事は文系選択で、1年の理系のクラスとフロアが同じのはずだ。
うちの学校は、文系と理系で4クラスずつの8クラス編成だ。
文系と理系ではフロアが分かれる。1年の文系は4階、理系は3階といった具合だ。
1つのフロアには通常8クラスが並べる。
だが、4階には各教科の準備室があり、4クラス分しか並べず、1年の理系は2年の文系と同じフロアになるのだ。だから、4階以外は多学年と交わることになる。
私は理系だから、同じフロアのはずだけど、全然気が付かなかった。
私は正直国語が最も得意で、文系よりの大学を視野に入れるほどだ。
でもうちの学校の文系は、ただ文系教科を学びたいという人が集まっているわけじゃない。
「文系」という名の、高校を謳歌したいという人たちが集まるような、遊びクラスだ。はっきり言って、民度が低いのだ。
うちの学校は、市内では有数の進学校だし、偏差値も高い。
なのにそういう人でも学校に入れてしまうのは、市の過疎が進んでいるからだろう。
ネットに乗っているこの高校の偏差値は、もはや当てにならない。
私は理系に通っているから教室は3階で、2年の文系と同じフロアだ。
入学してから身に染みて分かった。
文系は、やはり怖い。いや、恐い。
表上では仲良く見える女の子2人組の片割れは、トイレで散々毒を吐いていた。
一軍のような男の子グループは、1人の男の子を購買まで買い出しに行かせていた。
それが当たり前のようになっている文系には、やはり行かなくてよかったと思う。
心底思う、「理系でよかった」と。
難点と言えば、数学がよく分からないという事くらいだ。
先輩はたしかに、明るい派手なグループに居る人だとは思っていたけれど、まさか文系とは。
仲間内で馬鹿にされたりしたら怖いな、ていうか、先輩に迷惑がかかるようになるのでは。
勝手にあれこれ妄想を進めて、唸っていた。
「あ、ホットココアの子だ。」
ばっと顔をあげると、目の前に勝手に見慣れたあの顔があった。
絶対に忘れるはずもないあの声だ。
あれから1ヶ月、ずっと頭の奥で響いていた、あの声。
まぶたの裏に焼き付いたあの笑顔。
彼を見ていたら、今まで妄想なんて吹き飛んで、彼だけに焦点が当たった。
「久しぶりだね。」
「あ…お、お久しぶりです。」
彼は私の前の席にすとんと腰を下ろし、そのまま前を向いて資料を開いていた。
…話しかけられてしまった。
なのに、私はまたしどろもどろになってしまった。
せっかく会えるならもっとメイクとか髪とか直したのに。そしたら、もっとはきはき返事出来たのにな。
メイクをしなければ外見は、普通以下なんだから。
そんなの先輩に見せたくない。今すぐにでもトイレに駆け込んで、アイラインとコンシーラーを直したい。
私は鏡を取り出して、目元を引っ張ったりしながら化粧崩れを気にしていた。
ていうか、なんで先輩は私の前の席に座ったの?もしかして、すこし好意的に思ってくれてたりする?
仲良くなりたいって先輩も思ってたりするのかな。
あるわけない妄想が先走って、勝手に少し浮かれていた。
なんとも落ち着かず、そわそわと前髪を撫でた。
「……ねえ、君、『和泉 銀次』?」
先輩は資料をばっと置いて振り向き、顔を覗き込むようにして言った。
一瞬、意味がわからなくフリーズした。
和泉?銀次?誰だ、それ。
「…え?えっと私、三島ですけど。」
「ほら、俺の席の後ろ、君でしょ?」
彼はそういって私の机の上にある資料を指さした。
意味がわからなくて指の指すところを見ると、席はあらかじめ指定されていたみたいで、私は先輩とは全く離れた廊下側の席だった。
「…え、あ!すみません、席、間違えてました。」
荷物をまとめ、あわてて席を立つと後ろの方に『和泉銀次』らしき男の子が困った様子でこちらを見ていた。
「すみません、すみません。」と謝りながら席に戻り、腰を下ろした。
頬は熱く、冷や汗が背中を通った。
恥ずかしすぎる。
先輩の前で、こんなの恥ずかしすぎる。
いますぐ、ここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
黒板を見ると、座席表はしっかりと貼ってあって、なおさら恥ずかしかった。
すっかり気分も落ち込み、そのままぼーっと自己紹介やら資料の説明やらを聞き流し、その日の会議は終了した。
会議は思っていたより早く終わり、私は逃げるように大会議室を出た。
ああ、もう。さいあくだ。
さっさと帰ろう。
「あ、三島さん!
…三島桂花さん!」
自分の名前が大声で後ろから呼ばれ、慌てて振り向くと、目の前には日比谷先輩がいた。
日比谷先輩は私の元へ駆け寄り、「あ、和泉銀次って呼んだ方がすぐ気が付いた?」とにやりと笑った。
「馬鹿にしないでください!銀次くん困ってたし、すごく恥ずかしかったんですから。」
わざわざ掘り返してくる彼に少しイラッとして、怒ったような口調になってしまった。
すると、彼は「冗談だって。」と子供のようにけらけらと笑った。
いつも見ていた大人びた表情もかっこいいと思ったけど、今のような笑顔の方が可愛いかも知れない。
たしか、初めて彼を見た時もこんな笑顔だった気がする。
「あ、ていうか、名前!なんで知っているんですか?」
先輩がさっき『三島 桂花』と呼んでいたの思い出した。
彼に名前なんて教えたっけ。
いやそんなこと話す機会なんて1度もなかった。
「自分で言ってたじゃん、自己紹介で。」
そうだ、さっき恥ずかしさのあまり魂が抜けかけたような自己紹介をしたんだった。
緊張より羞恥心が上回って頭がいっぱいで、覚えていなかった。しっかりしなければ。
それよりも、私の適当に流した自己紹介をしっかりと聞いてて、覚えていてくれたということが嬉しくて、今はそれどころじゃない。
「あ、そうそう、はい。これ、三島さんの忘れ物。」
すっかりと浮かれてしまっている私に、彼は手のひらに乗せたシャープペンを差し出した。
それは千穂と一緒に、楓が愛用していたキャラクターのシャープペンを勝手にお揃いに揃えたものだった。
「すみません、わざわざありがとうございます。」
「いいえ。知り合いのものに似てたからなんとなく目に止まっただけだし。」
彼はそう言って、手をヒラヒラと振った。
「あ、じゃあ俺、職員室に用事があるから。またな。」
「あ、はい!また。」
先輩は少し小走りで階段を降りていった。
私は彼の姿が見えなくなっても、階段の方を見つめたままだった。まるで視線をそこに釘打たれたように。
階段を降りても、教室に戻っても、昇降口から出ても、家に帰ってからも、ずっとのぼせ上がっているようだった。
先輩と、日比谷先輩と、話せた。
ずっと見ていただけのあの人と、話せてしまった。
先輩は遠くで見るよりずっと顔が整っていて、近くで見ると上背があった。
近くで会えたというたくさんの感覚が、私の中でぐるぐると周り、熱くなった。
でもやっぱり、私の中では彼のあの笑顔がずっと瞼の裏に張り付いていた。
優しい弧を描いた口も、きゅっと結ばれる目元のしわも、全てが忘れられなかった。
あんな素敵な笑顔を向けられる女性は、どんな方なんだろう。
間違いなく、超絶美少女なんだろう。
私になんかにはかなうはずもないような。
それでも、私が彼の隣に立ちたい。
かないっこないけれど、それでも、夢見てしまう。
本当に、彼は、ずるい。
この前までは冬の訪れを感じさせたのに、ここ数日は夏へ逆戻りしたようだった。
「ねえ、今日遊ばない?」
千穂がぴょんぴょんと鞠のように跳ねながら、楓と私の元に転がってきた。
「いいね、カラオケにしようか。それか涼しいとこ。」
「桂花はほんとに暑いの苦手だね。夏生まれなのに。」
楓は、わははっと盛大に笑い飛ばした。
たしかに、夏は嫌いだ。
せっかく綺麗にセットした髪が汗で崩れるし、リュックは背中が暑くて登下校がしんどいし、教室は濁った空気充満してる気がするし、露出が増えるし、荷物も増える。
いいとこなんて無い。
唯一解せるのは、長期休みがあることくらいだ。
でも、休みの期間はたいてい家から出たくないし、遊びに誘われても毎日会う訳では無いから、暇だ。
やっぱり、夏は嫌いだ。
「てか、桂花委員会じゃないっけ、今日。」
楓がそう言いながら教室の後ろにある掲示板を指さした。
たしかに、文化祭実行委員の最初の招集日が今日だった。
「うわ、さいあく。行かなきゃだ、わたし。」
それを聞いた千穂は「そっかそっかまた今度だね〜」と微笑み、楓は「頑張ってこい。」と親指を立てて口の端をあげた。
せっかく遊ぶのに乗り気になっていた2人に申し訳なさしか出てこなかった。
一言声をかけ、招集場所へ足を向けた。
2人と別れたあとは、それはもうどんよりとした気持ちだった。
委員会決めの時、委員会になんて所属するとつもりもなくて、ただぼーっと窓の外を眺めていた。
余った枠をじゃんけんで負けた人がなるという手段で決定したらしく、当然、その時私は負けたのだ。
同じ委員会の男の子は、大して仲良くもなく、入学して数回しか話したことがないくらい接点がない。
気まずい以外なんでもない。
本当にさいあくだ。
しかも文化祭実行委員は仕事が多い、らしい。
決められた予算の中で自分のクラスの出し物を実現させ、クラスで衣装も決めて、メイクや衣装の許可書を書いて、シフトなどこと細かく時間スケジュールを組みたけなければいけない。
せっかくの高校初文化祭が、裏方仕事だけで終わるのだ。
これ以上にめんどくさいものは無い。
正直憂鬱だ。
結局、日比谷先輩とはあれから何も無くて、およそ1ヶ月、前と同じように見つめるだけの生活になっていた。
トントン拍子になにか進むとは思ってなかったけれど、正直期待はずれだ。
(うわ、蒸し暑、)
召集場所になっていた西校舎の3階にある、大会議室の扉を開けて、更にどんよりする。
たしか、大会議室のある西校舎はエアコンがない。放課後は日光が直射するとかでカーテンを締め切っている。
最悪だ。
本格的に話し合うのはこれが最初だし、今日は長引くだろう。最悪すぎる。
窓に近い席を選び、カーテンの裏から窓を開け、席に着いた。
夏の暑さが残るといえど、放課後はやはり秋らしいすこし冷たい風が頬を撫でた。
(カーテン開けちゃえばいいのに。)
集合時間までは少し時間があるし、机の上に置かれた資料に目を移した。
決定事項がプリントにびっしりと並んでいて目眩がした。
これは本当に今年の文化祭は楽しむより、仕事だけで終わりそうだ。
半分現実逃避を兼ねてぱらぱらとページをめくると、最後のページは実行委員の名簿になっていた。
(そういえば他のクラスの実行委員とか知らないな。顔見知りでも居ればいいけど。)
文字を追っていくと、見覚えのあるあの名前があった。
『2-C 日比谷 千里』。
どくん、と心臓が高鳴った。
先輩も同じ委員会だったなんて。
どうしよう、うれしい。
文化祭は準備が多いんだから、他学年と協力しなければならない場面が多いだろう。
もしかしたら、また、話すことが出来るのかもしれない。
そうしたら、私のことをただの1年生じゃなくて、『私』として覚えてくれるかもしれない。
(……そういえば先輩ってC組なんだ)
C組という事は文系選択で、1年の理系のクラスとフロアが同じのはずだ。
うちの学校は、文系と理系で4クラスずつの8クラス編成だ。
文系と理系ではフロアが分かれる。1年の文系は4階、理系は3階といった具合だ。
1つのフロアには通常8クラスが並べる。
だが、4階には各教科の準備室があり、4クラス分しか並べず、1年の理系は2年の文系と同じフロアになるのだ。だから、4階以外は多学年と交わることになる。
私は理系だから、同じフロアのはずだけど、全然気が付かなかった。
私は正直国語が最も得意で、文系よりの大学を視野に入れるほどだ。
でもうちの学校の文系は、ただ文系教科を学びたいという人が集まっているわけじゃない。
「文系」という名の、高校を謳歌したいという人たちが集まるような、遊びクラスだ。はっきり言って、民度が低いのだ。
うちの学校は、市内では有数の進学校だし、偏差値も高い。
なのにそういう人でも学校に入れてしまうのは、市の過疎が進んでいるからだろう。
ネットに乗っているこの高校の偏差値は、もはや当てにならない。
私は理系に通っているから教室は3階で、2年の文系と同じフロアだ。
入学してから身に染みて分かった。
文系は、やはり怖い。いや、恐い。
表上では仲良く見える女の子2人組の片割れは、トイレで散々毒を吐いていた。
一軍のような男の子グループは、1人の男の子を購買まで買い出しに行かせていた。
それが当たり前のようになっている文系には、やはり行かなくてよかったと思う。
心底思う、「理系でよかった」と。
難点と言えば、数学がよく分からないという事くらいだ。
先輩はたしかに、明るい派手なグループに居る人だとは思っていたけれど、まさか文系とは。
仲間内で馬鹿にされたりしたら怖いな、ていうか、先輩に迷惑がかかるようになるのでは。
勝手にあれこれ妄想を進めて、唸っていた。
「あ、ホットココアの子だ。」
ばっと顔をあげると、目の前に勝手に見慣れたあの顔があった。
絶対に忘れるはずもないあの声だ。
あれから1ヶ月、ずっと頭の奥で響いていた、あの声。
まぶたの裏に焼き付いたあの笑顔。
彼を見ていたら、今まで妄想なんて吹き飛んで、彼だけに焦点が当たった。
「久しぶりだね。」
「あ…お、お久しぶりです。」
彼は私の前の席にすとんと腰を下ろし、そのまま前を向いて資料を開いていた。
…話しかけられてしまった。
なのに、私はまたしどろもどろになってしまった。
せっかく会えるならもっとメイクとか髪とか直したのに。そしたら、もっとはきはき返事出来たのにな。
メイクをしなければ外見は、普通以下なんだから。
そんなの先輩に見せたくない。今すぐにでもトイレに駆け込んで、アイラインとコンシーラーを直したい。
私は鏡を取り出して、目元を引っ張ったりしながら化粧崩れを気にしていた。
ていうか、なんで先輩は私の前の席に座ったの?もしかして、すこし好意的に思ってくれてたりする?
仲良くなりたいって先輩も思ってたりするのかな。
あるわけない妄想が先走って、勝手に少し浮かれていた。
なんとも落ち着かず、そわそわと前髪を撫でた。
「……ねえ、君、『和泉 銀次』?」
先輩は資料をばっと置いて振り向き、顔を覗き込むようにして言った。
一瞬、意味がわからなくフリーズした。
和泉?銀次?誰だ、それ。
「…え?えっと私、三島ですけど。」
「ほら、俺の席の後ろ、君でしょ?」
彼はそういって私の机の上にある資料を指さした。
意味がわからなくて指の指すところを見ると、席はあらかじめ指定されていたみたいで、私は先輩とは全く離れた廊下側の席だった。
「…え、あ!すみません、席、間違えてました。」
荷物をまとめ、あわてて席を立つと後ろの方に『和泉銀次』らしき男の子が困った様子でこちらを見ていた。
「すみません、すみません。」と謝りながら席に戻り、腰を下ろした。
頬は熱く、冷や汗が背中を通った。
恥ずかしすぎる。
先輩の前で、こんなの恥ずかしすぎる。
いますぐ、ここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
黒板を見ると、座席表はしっかりと貼ってあって、なおさら恥ずかしかった。
すっかり気分も落ち込み、そのままぼーっと自己紹介やら資料の説明やらを聞き流し、その日の会議は終了した。
会議は思っていたより早く終わり、私は逃げるように大会議室を出た。
ああ、もう。さいあくだ。
さっさと帰ろう。
「あ、三島さん!
…三島桂花さん!」
自分の名前が大声で後ろから呼ばれ、慌てて振り向くと、目の前には日比谷先輩がいた。
日比谷先輩は私の元へ駆け寄り、「あ、和泉銀次って呼んだ方がすぐ気が付いた?」とにやりと笑った。
「馬鹿にしないでください!銀次くん困ってたし、すごく恥ずかしかったんですから。」
わざわざ掘り返してくる彼に少しイラッとして、怒ったような口調になってしまった。
すると、彼は「冗談だって。」と子供のようにけらけらと笑った。
いつも見ていた大人びた表情もかっこいいと思ったけど、今のような笑顔の方が可愛いかも知れない。
たしか、初めて彼を見た時もこんな笑顔だった気がする。
「あ、ていうか、名前!なんで知っているんですか?」
先輩がさっき『三島 桂花』と呼んでいたの思い出した。
彼に名前なんて教えたっけ。
いやそんなこと話す機会なんて1度もなかった。
「自分で言ってたじゃん、自己紹介で。」
そうだ、さっき恥ずかしさのあまり魂が抜けかけたような自己紹介をしたんだった。
緊張より羞恥心が上回って頭がいっぱいで、覚えていなかった。しっかりしなければ。
それよりも、私の適当に流した自己紹介をしっかりと聞いてて、覚えていてくれたということが嬉しくて、今はそれどころじゃない。
「あ、そうそう、はい。これ、三島さんの忘れ物。」
すっかりと浮かれてしまっている私に、彼は手のひらに乗せたシャープペンを差し出した。
それは千穂と一緒に、楓が愛用していたキャラクターのシャープペンを勝手にお揃いに揃えたものだった。
「すみません、わざわざありがとうございます。」
「いいえ。知り合いのものに似てたからなんとなく目に止まっただけだし。」
彼はそう言って、手をヒラヒラと振った。
「あ、じゃあ俺、職員室に用事があるから。またな。」
「あ、はい!また。」
先輩は少し小走りで階段を降りていった。
私は彼の姿が見えなくなっても、階段の方を見つめたままだった。まるで視線をそこに釘打たれたように。
階段を降りても、教室に戻っても、昇降口から出ても、家に帰ってからも、ずっとのぼせ上がっているようだった。
先輩と、日比谷先輩と、話せた。
ずっと見ていただけのあの人と、話せてしまった。
先輩は遠くで見るよりずっと顔が整っていて、近くで見ると上背があった。
近くで会えたというたくさんの感覚が、私の中でぐるぐると周り、熱くなった。
でもやっぱり、私の中では彼のあの笑顔がずっと瞼の裏に張り付いていた。
優しい弧を描いた口も、きゅっと結ばれる目元のしわも、全てが忘れられなかった。
あんな素敵な笑顔を向けられる女性は、どんな方なんだろう。
間違いなく、超絶美少女なんだろう。
私になんかにはかなうはずもないような。
それでも、私が彼の隣に立ちたい。
かないっこないけれど、それでも、夢見てしまう。
本当に、彼は、ずるい。
