桂花の香りは千里先まで

(あー、めんどくさ。)
放課後の廊下を不機嫌に一人で歩いていた。


にぎやかな友達たちとボーリングに行こうと話をしていたときだ。
「お、いたいた。…千里ー!」
教室の入口から、3年のサッカー部の部長が俺の名前を呼んだ。
「そんな大声じゃなくても聞こえますよ。」
「はいはい。分かったって。千里、今日、大野先生に来週の部活の予定聞いといてくんない?」
「……あー、」
ボーリング行こうって言ってるんだよな、今。
どうしよう、と口ごもった。
「俺、これから、みーちゃんとの初デートなんだよお!だから、千里、頼む!」
部長の勢いに押されて、思わず「いいですよ。」と口走ってしまった。
断ったら、どう思われるか分からないし。
でも、アイツらの方はどうしよう。
友達の方に目を移した。
彼らは、机に座って、大声で笑っていた。
「……どした?千里。」
うーんと悩んでいたところ、颯太(そうた)が声をかけてきた。
颯太とは、小学生の頃から仲が良くて、腐れ縁だ。
「あー……俺、用事はいった。先行っといて。」
「おーじゃ、行ってるな。いつものとこだからーにいるから。」
颯太は、「千里、用事だってよ。行くぞ。」と言って、騒いでるヤツらを引っ張って連れ出した。
大人数でぞろぞろと教室から出ていった。
「はー……。」
彼らが出ていくと、一気に力が抜けた。
大丈夫だよな、俺の対応。
当たり障り無かったよな。
1人で言動を振り返って、また、息を着いた。
そして、廊下に向かって足を進めた。

(めんどくせーな。)
顧問の大野先生は、たしか、1-Eの担任のはずだ。
俺と同じフロアのはずだけれど、1年の教室に入るのは少し気が引ける。
面倒事を押し付けられて、さんざんだ。
気は使うけど、友達といた方がずっと楽しい。
1-Eの札が見えて、早歩きでそちらに向かった。
さっさと終わらせて、あいつらを追いかけよう。
そう意気込んで、教室に足を踏み入れようとしたとき、何かの力がこちらを押すように身体が硬直した。
瞬間、ある女の子で目が止まった。
放課後の賑わっているの声が、無音になった。
視界には、彼女だけしか映らなかった。
その女の子は、なにやら友達との会話で盛り上がっていて、『あははっ!』と声を上げて笑っていた。
ただ、『楽しい!』と自分の気持ち全面に表現しているようだった。
彼女のその飾らない笑顔に強く惹かれた。
俺は気を使ってばっかりで、最後に純粋に笑ったことなんて、覚えてない。
この子は素直で無邪気なんだろうな。
俺みたいに余計なことなんて考えないで、ただ、楽しいことに忠実なんだろう。
「……かわいい。」
気づいたらそう呟いていた。
自分の声を聞いて、ハッとした。
知り合ってもない人にそんなことを思うなんて。
今まで、人を好きになった経験が無いから、自分にもそういう感情があったことに、すこし驚いた。
もう一度、彼女を見ると、 ふと窓の外を見ていた。
つられて外を見ると、視線の先には、オレンジの花をつけた小柄な木があった。
(金木犀…だっけ。)
金木犀を見つめる目は、甘く、それでいて繊細だった。
「綺麗だな。」
この子は、きっと、好きな人にもこんな視線を送るのだろうか。
彼女から愛される人は、幸せだろうな。
そんなこと思いながら、教室に足を踏み入れた。
足取りはさっきより軽く、ふわふわとしているようだった。
「すみません。大野先生。」
「おー、千里か。どうした?」
「来週の部活の予定を聞きたくて。」
「あーそう言えば、予定表出してなかったな。」
ほら、と言って予定の書かれた紙を差し出してきた。
「ありがとうございます。」
「そう言えば、来月の試合、お前スターターな。」
驚いて顔を上げると、先生は盛大に笑った。
「何驚いてんだよ。お前、上手いし熱心だし。前から、そうするって決めてたよ。」
思わず笑ってしまった。
中学の時、誰にも必要とされなかったから、先生の言葉が嬉しくてたまらなかった。
「ありがとうございます。がんばります!」
そう言って教室を足早に出た。
教室から出て、ぐっと拳を握ってガッツポーズをした。
嬉しい。
頑張ろう。
頑張りたい。
俺も、彼女のように、楽しいと胸を張って言いたい。
そして、昇降口に向かって、思い切り走った。

「…っお!千里来た!」
「おー、待ってたのかよ。」
てっきり先に行っているのかと思いきや、全員昇降口の前でたむろしていた。
「みんなで遊び行きたいじゃん?」
「全然よゆーで待てるしなー!」
彼らは口々に言った。
「ははっ、なんだそれ。」
予想もしていなくて思わず吹き出す。
行くぞー!とまた大声を出した彼らは、わいわいと盛り上がりながら足を進めた。
はしゃいで早足になっているやつらを後ろから見ていると、颯太がすっと隣に来た。
「なんかあった?」
「なにが?」
「なんか、さっきの笑った顔、昔の千里思い出すわ。」
「う、ん?は?」
俺は、颯太の言っている意味がよく分かんなくて、微妙な反応になってしまった。
「こっちの方が、千里らしいな。」
颯太はくすりと笑って、前を走る奴らを追いかけた。
颯太の言っていることはよく分からなかったけど、自分でも少し腑に落ちているところはある。
彼女の純粋で真っ直ぐな笑顔を見たら、俺もそうなりたいって思っている。
もう何年も取り繕った笑顔だったけれど、心の底から笑顔が出たのは、久しぶりだ。
それが、全然、嫌じゃない。
怖くもない。
きっと、彼女の不思議な魔法だ。
彼女の笑顔にはそんな力がある。
ふと上をむくと、彼女が見つめていたあの花があった。
オレンジの小さな花は、満開に笑う彼女を連想させた。
「…あの子、なんて名前なんだろな。」
「おーい!千里!置いてっちゃうぞ。」
「わかった今行く。」
その花は俺に笑いかけるように、濃厚な芳香を放った。
返事をして、彼らの後をおった。


今思えば、一目惚れだった、と思う。
一瞬で彼女から目が離せられなくなった。
一吸いすれば忘れられない、そんな金木犀のような笑顔だった。