部活が終わって、学校を出て。
他の部員のみんなと別れて、杏奈と2人きりになったところで、私たちは「ちょっと、ちょっと大事件!!」と大騒ぎ。
「ねぇ、雪平先輩、なずなの手をさわったよね!? あんなの初めてじゃない? 急になんなの?」
「わかんないよっ。びっくりしたよ。いい匂いしたっ!」
「なずな、顔が真っ赤になってたよ」
「えー、先輩とか部員のみんなに私の気持ちが気づかれてたらどうしよう!」
「まぁそれは、すでにバレバレだから今更気にしなくていいかもだけど……」
「え、そうかな!? 先輩、私が好きなこと知ってるのかな?」
「どうだろう……、雪平先輩もかなり変……じゃなくて、えーっと、天然って感じだから、気づいてるのかどうなのか……。でもさ、今日のアレ、なずなが先輩のこと好きなのに気づいててやってるのか、気づいてなくてなのかで、けっこう話が変わってくるよね」
「え、どゆこと?」
「だからさ、自分が好かれてるってわかってなかったら、今日のアレは特に深い意味はないかもしれないじゃん。けど、好かれてるってわかってて、なずながドキドキしちゃうのわかっててあんなことしたんだとしたら……」
「オレへのあてつけ、だな」
後ろから声がして、パッと降りあえると、ブスッとした表情の成瀬。
「あ、成瀬、まだいたの」
杏奈がそういうと、成瀬はますます不機嫌モード。
「アイツ、なんなんだよ。ヘラヘラしやがって。なずな、あんなヤツのどこがいいんだよ?すべてにおいてオレが圧勝してるのに」
「どこが!?」
「どこって、だからすべてだよ。金と頭脳と才能と」
成瀬がそういって、杏奈がやれやれって顔をする。
「なぁにいってんだか。恋ってさ、そういうんじゃないのよ」
杏奈の言葉に、私はうんうんと大きくうなずく。
「結局は好みの問題だから。なずなは昔から年上の優しい先輩キャラに弱かったの。まぁね、成瀬クン。雪平先輩は手ごわいと思うよ~。あのタイプは、一部の女子にはもうど真ん中に刺さるのよ。せいぜいがんばって」
「……沖縄の離島でしか買えないという黒糖スイーツ、買いに行かせるか……。いや、ここはやっぱり北海道の……」
ブツブツいってる成瀬に、私はさっきから頭の中にあった質問をぶつける。
「ねぇ、ところで、なんでついてきてるの?」
「え? いや、せっかくだから、なずなの家族に挨拶しとこうかと」
当然のようにそういわれて、私、びっくり。
「挨拶!? いいよ、べつにそんなの!!」
「いや、将来の家族になるかもしれないし」
「なりませんっ!!」
とかなんとかいっているうちに、ウチの店が見えてきてしまう。
古びた木造2階建ての建物。
入口には、紺色のれんに白い字で『鈴音屋』の文字。
「お、おぉー」
建物を上から下まで見て、成瀬が変な声を出す。
「なによ」
「いや、これは、想像以上に……、ワビサビって感じだな」
成瀬がそういって、
「何十年もの歴史があるからね」
杏奈のフォロー。
「んもー! とにかく、挨拶とかいらないから、成瀬はもう帰って、バイバイ!」
「まぁ待て。じゃあせっかくだから、なんか買って帰るわ」
「やだ。うちのことバカにするヤツに売るお菓子はない!」
「バカにはしてない」
そんな風にもめていると、店の中からおばあちゃんが出てきた。
「おかえり、なずな。どうした?」
「おばあちゃん」
おばあちゃんの名前は小田鈴音。
おじいちゃんが和菓子屋をはじめるときに、奥さんであるおばあちゃんの名前をお店の名前にしたくて、『鈴音屋』っていう店名になったんだって。
そのくらい、おじいちゃんは、おばあちゃんが大好きだったらしい。
おじいちゃんの気持ち、わかる。
おばあちゃんを例えると……、働き者のリス、って感じかな。
小さな体にいつも白い割烹着をつけて、てきぱきと和菓子屋の仕事(主に接客とか事務のこととか)をやって、家事をして、暇さえあればそこらじゅうをお掃除して。ほんとうに働き者。
几帳面でまがったことが大嫌いな性格で、いつも髪の毛を一本残らず頭の後ろでまとめてお団子にしている。
私の自慢の、大好きなおばあちゃん。
お父さんもおばあちゃんには頭が上がらないって感じ。
そんなおばあちゃんは、今、成瀬を見上げてきょとんとした顔をしている。
成瀬は、にっこり微笑んで会釈。そして、
「こんにちは、なずなさんのおばあさま。私、成瀬航海と申します。なずなさんとおつきあいさせていただいております」
と、いった。
「ええっ! ひやぁぁぁぁ!」
おばあちゃん、目を見開いてくちに手を当てて、私と成瀬を交互に見る。
「いや、違うよ、おばあちゃん! つきあってなんかない!」
「つきあってる、ようなものです」
「違うっ!」
「というわけで、現在、成瀬君からなずなへ絶賛片思い中です!」
杏奈がそう雑にまとめて。
「ひぃぃぃぃ!」
おばあちゃんはますます驚いた顔をして……、で、成瀬に手招きする。
「ま、まぁ、いいから中に入んなさい。お茶でも飲んでいって」
「え! いいよ、おばあちゃん、こんなヤツ、家に入れないでよっ!」
「なずなっ! 誰に対してでも、「こんなヤツ」なんていうもんじゃないよっ!」
「ううっ」
おばあちゃん、礼儀に厳しいんだ。
「さ、どうぞ。この子の父親は今ちょっと出かけてるんですけどね」
「ありがとうございます。わ、これはこれは、中も趣がありますね……」
のれんをくぐって、成瀬が店内を見回す。
店にはいってまず目に入るのがガラスのショーケース。
お饅頭とか、どらやきとかの定番商品のほかに、今の時期の期間限定の商品、あじさい餅が置いてある。
で、右側の壁沿いに、日持ちする商品の棚、反対側にはちょっと休めるようにと椅子が2脚。
「さ、どうぞ」
おばあちゃんがショーケースの奥ののれんを上げる。
のれんの向こうは廊下で、左側にお父さんが和菓子を作る調理場があって、その先に私たち家族の居間。居間には、おじいちゃんの代から使っているというちゃぶ台が置いてある。
「今お茶入れるから、座って待っててね」
そういって居間から台所に向かおうとするおばあちゃんに、成瀬が声をかける。
「あ、そうだ。なずなさんのお母さんに、ごあいさつさせて頂いていいですか」
成瀬の思いがけない言葉に、私とおばあちゃんは顔を見合わせた。
「いい子じゃないか。ね、なずな」
入れたての熱々の緑茶とお菓子を乗せたお盆を持って、おばあちゃんがほほ笑む。
おばあちゃんの視線は、居間の奥の部屋、仏壇の前で手をあわせる成瀬の背中に注がれている。
「いい子? ないない! おばあちゃんの前だから、猫かぶってるだけ!」
「そうかい? そうは見えないけどねぇ」
おばあちゃんが首をかしげる。
いや、おばあちゃん、だまされてるよっ!
たしかにいいとこもあるけど、基本ごうまんで失礼で自信過剰で、ほんと迷惑してるんだから!
お母さんの仏壇に手を合わせている姿は、まるっきり礼儀正しい好青年って感じだけど……、私はだまされないぞ!!
「成瀬君、ありがとう。さ。杏奈ちゃんもなずなも、座って座って」
そういいながら、おばあちゃんが居間のちゃぶ台の上に並べたのは、お茶とお菓子、それから……、アルバム!?
「おばあちゃん!? こんなの出してきたの?」
「そりゃ、そうでしょ。おばあちゃん、楽しみにしてたの。いつか、なずなが彼氏を連れてきたら、このアルバムを見ながらおしゃべりしよう、って」
「だから、彼氏じゃないって!」
「まぁいいじゃない。似たようなモンなんでしょ」
「ぜんぜん違う!」
「いいからいいから……。ほら、これがね、生まれてすぐで、これが初めての七五三で……。あぁ、これがこの子の母親」
「あぁ、懐かしいです。ボク、なずなさんと同じ幼稚園に通っていたので」
「あら、そうなのかい」
「はい。改めて見ると、やっぱりなずなさんはお母さん似ですね。この写真なんて、そっくり」
「え、そうかな」
お母さんに似てる、といわれてうれしい気持ちを隠したくてお茶をすする。
あ、これ、おばあちゃんってば成瀬のためにうちにある中でいちばんいい緑茶を入れたな。まろやかなうまみが舌にまとわりついてうっとりする。
「この子の母親が亡くなったのは、この子が8歳のときでね。名前の通り明るくて太陽みたいだった晴奈さんがいなくなって、家の中から火が消えたようで、私たちみんな、どうしていいのかわからなくて」
おばあちゃんが、私とお母さんが映っている旅行の写真を撫でながら、ぽつりとつぶやく。
「そんなとき、なんでだったか、この子の父親が、この子に和菓子作りを教えはじめたんだよ。そしたらこれがもう、スポンジが水を吸い込むみたいにどんどん吸収して、うまくなっちまってねぇ」
そう。私はその日のことをはっきり覚えてる。
お父さんといっしょに初めてつくったのは、あんみつ。
寒天をとかして、型に入れて固めて、さいの目に切って、フルーツと豆を乗せて黒蜜をかけて食べた。
それが楽しくて楽しくて、休みの日にお父さんから和菓子作りを教えてもらうのを楽しみに平日を過ごして。
「わらび餅や水ようかんを一人で作れるようになって、まんじゅう作りができるようになって、上生菓子作りに挑戦して……、なんてやってるうちに、いつのまにか3人の暮らしも落ち着いてきて」
「覚えてる。なずなが作った和菓子を初めてもらったとき、まだ小3とかなのにすごいって思ったな。でも不思議と驚きはなくて。なずなって、小さいときから幼稚園の粘土遊びの時間に必ず和菓子作ってたんだよね。『これは「きんとん」、これは「練り切り」』とかって」
杏奈の言葉におばあちゃんが小さくうなずく。
「身内がいうのもなんだけどね、『好きこそ物の上手なれ』っていうのかな、ほら、こんなのまで作りだして」
そういいながら、おばあちゃんが新たに取り出したものを見て、わたしは悲鳴をあげる。
「ぎゃあーーーー!! おばあちゃん、ほんとやめてよっ」
「なんでよ。日記でもあるまいし。見られたくないならちゃんと片付けな!」
うっ。たしかに、2階の自分の部屋に片付けずに居間に放置してた私も悪いんだけどさぁ。
ちゃぶ台の上に広げられたのは、2冊のノート。
ピンク色のノートは、これまでに作った和菓子の写真を貼って、作り方とか食べた感想とか改善点が書いてある。
青いノートは、『いつかこんなの作りたいな~』という和菓子のイラストとかアイディアを書いているノート。
「これは、すごいな」
成瀬が、ノートをのぞきこむ。
「もう、読まなくていいからっ!」
成瀬の目が、和菓子のイラストからその下の小さな字に移るのがわかって、私はあわててノートをひったくる。
なんか、頭の中をのぞかれるみたいで恥ずかしい!!
「え、なんでだよ」
「べつに……あ、ほら、そんなことより、このお菓子食べてみてよ! うちのお父さんが作った『若鮎』。和菓子の『若鮎』って、食べたことある?」
私は、お皿の上の、茶色いお菓子を手にとる。
「『若鮎』っていうお菓子はね、薄く焼いたカステラ生地で求肥をぐるっと巻いて、で、顔とか尾びれの焼き印を押して、魚の鮎みたいにしたお菓子なの。あ、求肥っていうのは、いちご大福の皮みたいな、もちもちでおいしいヤツね」
「え、いちご大福のまわりって、あれお餅じゃないの?」
杏奈がびっくりした顔をする。
「うん、お餅って、もち米をついて作るでしょ? 求肥は、もち粉とか白玉粉に砂糖や水あめを入れて練って作るんだよ。で、お餅は甘くないし、すぐ固くなっちゃうんだけど、求肥は甘くて硬くならない」
「はーっ! 長らく和菓子マニアの親友やってるのに、知らなかったわー。でもほんと、なずなのお父さんの作るこの『若鮎』はおいしいよねぇ」
杏奈がそういってくれて、私はえっへんと胸を張りたくなる。
「でしょー。うちの『鮎』には、おじいちゃんの代からのこだわりがいーっぱいつまってるんだ。まず、このカステラ生地。すごくふかふかに仕上げてる。で、中身は求肥だけ。和菓子ってね、地域によっていろいろ違うところがあって、関東の和菓子屋さんの『若鮎』は、求肥とあんこを入れるお店が多いの。けど、うちの『若鮎』の中身は求肥だけ。ねとーっとした求肥の甘さをしっかり味わってもらえるようにね。ほんっとにおいしいから、さ、食べて食べて!」
わたしが勧めると、成瀬がパクッと鮎を口にいれる。
「あ。うまっ」
「でしょーーっ!!」
お世辞とかじゃなく、心から漏れて出てきたみたいな声で、私はパッと明るい気持ちになる。
和菓子って、ほんとおいしいくて、きれいで。
でも、ケーキとかチョコとか、ほかにもおいしいお菓子はいっぱいあるから、昔にくらべると、和菓子を食べる機会ってどんどん減ってるんだって。
だから私は、このおいしさをもっともっとみんなに知ってもらえたらいいな、って、ずっと思ってて。
こうやって、だれかがおいしいって食べてくれるのが一番うれしい。
いつか、私もそんな和菓子を作れる職人になれたら、って思ってるんだ。
「よかったよかった。成瀬君、このおかきも食べて。お茶のおかわりいれてくるね」
「あ、私、トイレ借りまーす!」
そういって、おばあちゃんと杏奈が立ち上がる。
私は、鮎を食べおえた成瀬に、次のお菓子をすすめる。
「こっちは、1年中お店に並んでる定番商品の『カピバラまんじゅう』。私が小さいときにカピバラにハマって、私のお誕生日会用にでお父さんが作ってくれたんだけど、友達もみんな喜んで、それでお店でも売るようになったんだ。中にはお父さん自慢の黄身餡が入っててそれがすごくおいしくて……って、え!?」
ちゃぶ台の上の和菓子たちから視線をあげて、ぎょっとする。
成瀬の目がじーっと私を見てる!?
「ちょっ、なにっ。こっち見て、こっち!!」
必死でカピバラまんじゅうをつきつけると、成瀬の口元がニヤリとゆがむ。
「やっと、2人きりになれたな」
「えっ」
私、思わずお尻を浮かせて成瀬からちょっとでも離れようとする。
と、成瀬がパッと私の右手をつかむ。
「ぎゃっ。なにすんの!」
あわてて振りはらおうとするけど、成瀬は細身の身体からは意外なほど力強く私の手を掴んで開く。
「ここ、豆ができてる」
そういって、成瀬がそっと私の手のひらをなでる。
「なずなの手、女子にしたら固くて力強いよな。調査会社の報告書で、『店の手伝いをしてる』って見てから、ずっと気になってたんだ。もしかして、お母さんが亡くなって家のことぜんぶやって、店の手伝いもして、苦労してるんじゃないか、って」
優しい声。
「けど、おばあちゃんの話を聞いて安心した。この豆は、なずなが自分の意志で和菓子作ってて、それでできた豆ってことだよな?」
そんな心配してくれてたんだ。
優しい声。
ずるい。
「……そうだよ。私、ちゃんと幸せにやってるんだから。調査会社の人にもちゃんといっといて!」
そういうと、成瀬が笑ってうなずく。
「よくわかった。で、もうひとつ、今日一日いっしょにいてわかったことがある」
「なに?」
「なずなってさ、恋愛のことに関したら、小学校の低学年か、幼稚園児くらいだよな。」
「はい!?」
「オレ、1日で惚れさせてみせるみたいなこといったけど。で、ほんとうはすぐに付きあってデートして、今年の夏はハワイかな、くらいのスピード感で話を進めたかったんだけど。それはもうあきらめるわ。なずなのペースにあわせるから。じっくり考えて。オレのこと」
「う。うーん……」
そんなこといわれても。
おっしゃる通り、恋愛初心者の私には、なんて答えたらいいのかわからないよ~~~っ。
杏奈、早く戻ってきて!
強くそう願ったそのとき、ガラリと居間の入り口の引き戸が開いた。
「あ、お父さん」
小柄なおばあちゃんから生まれてきたとは思えないくらい、クマみたいに大きいお父さん。
仕事中の今は、真っ白の調理服姿に調理帽をかぶっているから、まるで白熊みたい。
顔は四角くて、厳しそうで「ザ・職人」って感じ。
性格も自分に厳しくてちょっと寡黙な感じで、こういうの、職人気質っていうのかなーと思う。
けど、私にはすごくやさしくて、笑うと目がなくなる。
そんなお父さんが、今、細い目を見開いて、こっちを見てる。
成瀬の手の上に私の手がのっているとこ。
ありゃー。これは、まずい。
「なずな……、なにしてるんだ?」
「あっ」
成瀬が、手をひっこめて体をお父さんのほうに向ける。
「お父さん、この子は成瀬君。最近うちのクラスに転入してきて、それで」
「はじめまして。成瀬亘です」
にこり、とさわやかに成瀬が挨拶しても、お父さんは微動だにしない。
「お父さん……?」
ただならぬ様子のお父さんと、さわやか好青年モードの成瀬。
成瀬は、立ち上がり、お父さんに向かって名刺を差しだす。
「ボクはこういう者です。さっそくですが……」
成瀬はお父さんの目をまっすぐに見る。
「ボクとなずなさんは、結婚の約束をしておりまして……」
は!? それいう? 今? この状況で? 冗談? 本気? ほんとありえない!!!
ブチッ。
あ、お父さん切れた。
「てめぇ、出てけーーーーーっっ!」
その日の夜。
(お水、お水……)
成瀬の「結婚の約束をしておりまして……」事件のあと、我が家はもう大変だった。
いちおう、成瀬とはただのクラスメイトだって説明はしたけど、お父さんはすっとムスーッと怒って、私と目を合わせてくれない感じで。
おばあちゃんは、「なずなが男の子と仲良くしてるのが気に食わないだけ。ただのやきもちだからほっとけ! 私はワタル君いいと思う」なーんていって、ケラケラ笑って、よけいにお父さんを不機嫌にさせるし。
んもー、ほんとサイアクっ。
そう思いながら眠りについたら、変な夢まで見ちゃって、で、今。
のどが渇いて、2階の自分の部屋から階段を降りて台所に向かおうとしているところ。
(あれ?)
1階についたところで、私は足を止める。
時計は見なかったけど、もう真夜中だと思う。
それなのに、居間の電気がついていて、話声が聞こえてくる。
(こんな時間まで、どうしたんだろう)
そーっと廊下を歩き、居間に近づくと。
おばあちゃんの声がはっきりと耳に入ってきた。
「どうだった? いいのは見つかったかい?」
「いや、ダメだな。どうしても味が落ちる。やっぱり小麦粉は変えられない」
お父さんの、沈んだ声。
「そうかい」
パチパチパチ、と、おばあちゃんがそろばんをはじく音が響く。
「駅前のパン屋、いつの間にか店を畳んだんだな」
「あぁ、そうだってね」
「次は、ウチかもしれない」
「なにいってんだ。弱気になるんじゃないよ。なんとかこの店守ってやってよ。じゃないと、夢に向かってがんばってるなずながかわいそうじゃないか」
「いや、それはわかってる」
「なら、がんばりな」
障子の向こうで誰かが立ちあがる気配がして、あわてて自分の部屋に引きかえす。
おばあちゃんが見に来るかもしれないから、お布団の中に入って、目を閉じる。
心臓の音がドクンドクンと早くなる。
うちの店、なくなるかもしれないの?
そんなこと、考えもしなかった。
寝ようとしてもお父さんとおばあちゃんの会話が頭から離れなくて。
結局、やっと寝られたのは、うっすら外が明るくなったころだった。
他の部員のみんなと別れて、杏奈と2人きりになったところで、私たちは「ちょっと、ちょっと大事件!!」と大騒ぎ。
「ねぇ、雪平先輩、なずなの手をさわったよね!? あんなの初めてじゃない? 急になんなの?」
「わかんないよっ。びっくりしたよ。いい匂いしたっ!」
「なずな、顔が真っ赤になってたよ」
「えー、先輩とか部員のみんなに私の気持ちが気づかれてたらどうしよう!」
「まぁそれは、すでにバレバレだから今更気にしなくていいかもだけど……」
「え、そうかな!? 先輩、私が好きなこと知ってるのかな?」
「どうだろう……、雪平先輩もかなり変……じゃなくて、えーっと、天然って感じだから、気づいてるのかどうなのか……。でもさ、今日のアレ、なずなが先輩のこと好きなのに気づいててやってるのか、気づいてなくてなのかで、けっこう話が変わってくるよね」
「え、どゆこと?」
「だからさ、自分が好かれてるってわかってなかったら、今日のアレは特に深い意味はないかもしれないじゃん。けど、好かれてるってわかってて、なずながドキドキしちゃうのわかっててあんなことしたんだとしたら……」
「オレへのあてつけ、だな」
後ろから声がして、パッと降りあえると、ブスッとした表情の成瀬。
「あ、成瀬、まだいたの」
杏奈がそういうと、成瀬はますます不機嫌モード。
「アイツ、なんなんだよ。ヘラヘラしやがって。なずな、あんなヤツのどこがいいんだよ?すべてにおいてオレが圧勝してるのに」
「どこが!?」
「どこって、だからすべてだよ。金と頭脳と才能と」
成瀬がそういって、杏奈がやれやれって顔をする。
「なぁにいってんだか。恋ってさ、そういうんじゃないのよ」
杏奈の言葉に、私はうんうんと大きくうなずく。
「結局は好みの問題だから。なずなは昔から年上の優しい先輩キャラに弱かったの。まぁね、成瀬クン。雪平先輩は手ごわいと思うよ~。あのタイプは、一部の女子にはもうど真ん中に刺さるのよ。せいぜいがんばって」
「……沖縄の離島でしか買えないという黒糖スイーツ、買いに行かせるか……。いや、ここはやっぱり北海道の……」
ブツブツいってる成瀬に、私はさっきから頭の中にあった質問をぶつける。
「ねぇ、ところで、なんでついてきてるの?」
「え? いや、せっかくだから、なずなの家族に挨拶しとこうかと」
当然のようにそういわれて、私、びっくり。
「挨拶!? いいよ、べつにそんなの!!」
「いや、将来の家族になるかもしれないし」
「なりませんっ!!」
とかなんとかいっているうちに、ウチの店が見えてきてしまう。
古びた木造2階建ての建物。
入口には、紺色のれんに白い字で『鈴音屋』の文字。
「お、おぉー」
建物を上から下まで見て、成瀬が変な声を出す。
「なによ」
「いや、これは、想像以上に……、ワビサビって感じだな」
成瀬がそういって、
「何十年もの歴史があるからね」
杏奈のフォロー。
「んもー! とにかく、挨拶とかいらないから、成瀬はもう帰って、バイバイ!」
「まぁ待て。じゃあせっかくだから、なんか買って帰るわ」
「やだ。うちのことバカにするヤツに売るお菓子はない!」
「バカにはしてない」
そんな風にもめていると、店の中からおばあちゃんが出てきた。
「おかえり、なずな。どうした?」
「おばあちゃん」
おばあちゃんの名前は小田鈴音。
おじいちゃんが和菓子屋をはじめるときに、奥さんであるおばあちゃんの名前をお店の名前にしたくて、『鈴音屋』っていう店名になったんだって。
そのくらい、おじいちゃんは、おばあちゃんが大好きだったらしい。
おじいちゃんの気持ち、わかる。
おばあちゃんを例えると……、働き者のリス、って感じかな。
小さな体にいつも白い割烹着をつけて、てきぱきと和菓子屋の仕事(主に接客とか事務のこととか)をやって、家事をして、暇さえあればそこらじゅうをお掃除して。ほんとうに働き者。
几帳面でまがったことが大嫌いな性格で、いつも髪の毛を一本残らず頭の後ろでまとめてお団子にしている。
私の自慢の、大好きなおばあちゃん。
お父さんもおばあちゃんには頭が上がらないって感じ。
そんなおばあちゃんは、今、成瀬を見上げてきょとんとした顔をしている。
成瀬は、にっこり微笑んで会釈。そして、
「こんにちは、なずなさんのおばあさま。私、成瀬航海と申します。なずなさんとおつきあいさせていただいております」
と、いった。
「ええっ! ひやぁぁぁぁ!」
おばあちゃん、目を見開いてくちに手を当てて、私と成瀬を交互に見る。
「いや、違うよ、おばあちゃん! つきあってなんかない!」
「つきあってる、ようなものです」
「違うっ!」
「というわけで、現在、成瀬君からなずなへ絶賛片思い中です!」
杏奈がそう雑にまとめて。
「ひぃぃぃぃ!」
おばあちゃんはますます驚いた顔をして……、で、成瀬に手招きする。
「ま、まぁ、いいから中に入んなさい。お茶でも飲んでいって」
「え! いいよ、おばあちゃん、こんなヤツ、家に入れないでよっ!」
「なずなっ! 誰に対してでも、「こんなヤツ」なんていうもんじゃないよっ!」
「ううっ」
おばあちゃん、礼儀に厳しいんだ。
「さ、どうぞ。この子の父親は今ちょっと出かけてるんですけどね」
「ありがとうございます。わ、これはこれは、中も趣がありますね……」
のれんをくぐって、成瀬が店内を見回す。
店にはいってまず目に入るのがガラスのショーケース。
お饅頭とか、どらやきとかの定番商品のほかに、今の時期の期間限定の商品、あじさい餅が置いてある。
で、右側の壁沿いに、日持ちする商品の棚、反対側にはちょっと休めるようにと椅子が2脚。
「さ、どうぞ」
おばあちゃんがショーケースの奥ののれんを上げる。
のれんの向こうは廊下で、左側にお父さんが和菓子を作る調理場があって、その先に私たち家族の居間。居間には、おじいちゃんの代から使っているというちゃぶ台が置いてある。
「今お茶入れるから、座って待っててね」
そういって居間から台所に向かおうとするおばあちゃんに、成瀬が声をかける。
「あ、そうだ。なずなさんのお母さんに、ごあいさつさせて頂いていいですか」
成瀬の思いがけない言葉に、私とおばあちゃんは顔を見合わせた。
「いい子じゃないか。ね、なずな」
入れたての熱々の緑茶とお菓子を乗せたお盆を持って、おばあちゃんがほほ笑む。
おばあちゃんの視線は、居間の奥の部屋、仏壇の前で手をあわせる成瀬の背中に注がれている。
「いい子? ないない! おばあちゃんの前だから、猫かぶってるだけ!」
「そうかい? そうは見えないけどねぇ」
おばあちゃんが首をかしげる。
いや、おばあちゃん、だまされてるよっ!
たしかにいいとこもあるけど、基本ごうまんで失礼で自信過剰で、ほんと迷惑してるんだから!
お母さんの仏壇に手を合わせている姿は、まるっきり礼儀正しい好青年って感じだけど……、私はだまされないぞ!!
「成瀬君、ありがとう。さ。杏奈ちゃんもなずなも、座って座って」
そういいながら、おばあちゃんが居間のちゃぶ台の上に並べたのは、お茶とお菓子、それから……、アルバム!?
「おばあちゃん!? こんなの出してきたの?」
「そりゃ、そうでしょ。おばあちゃん、楽しみにしてたの。いつか、なずなが彼氏を連れてきたら、このアルバムを見ながらおしゃべりしよう、って」
「だから、彼氏じゃないって!」
「まぁいいじゃない。似たようなモンなんでしょ」
「ぜんぜん違う!」
「いいからいいから……。ほら、これがね、生まれてすぐで、これが初めての七五三で……。あぁ、これがこの子の母親」
「あぁ、懐かしいです。ボク、なずなさんと同じ幼稚園に通っていたので」
「あら、そうなのかい」
「はい。改めて見ると、やっぱりなずなさんはお母さん似ですね。この写真なんて、そっくり」
「え、そうかな」
お母さんに似てる、といわれてうれしい気持ちを隠したくてお茶をすする。
あ、これ、おばあちゃんってば成瀬のためにうちにある中でいちばんいい緑茶を入れたな。まろやかなうまみが舌にまとわりついてうっとりする。
「この子の母親が亡くなったのは、この子が8歳のときでね。名前の通り明るくて太陽みたいだった晴奈さんがいなくなって、家の中から火が消えたようで、私たちみんな、どうしていいのかわからなくて」
おばあちゃんが、私とお母さんが映っている旅行の写真を撫でながら、ぽつりとつぶやく。
「そんなとき、なんでだったか、この子の父親が、この子に和菓子作りを教えはじめたんだよ。そしたらこれがもう、スポンジが水を吸い込むみたいにどんどん吸収して、うまくなっちまってねぇ」
そう。私はその日のことをはっきり覚えてる。
お父さんといっしょに初めてつくったのは、あんみつ。
寒天をとかして、型に入れて固めて、さいの目に切って、フルーツと豆を乗せて黒蜜をかけて食べた。
それが楽しくて楽しくて、休みの日にお父さんから和菓子作りを教えてもらうのを楽しみに平日を過ごして。
「わらび餅や水ようかんを一人で作れるようになって、まんじゅう作りができるようになって、上生菓子作りに挑戦して……、なんてやってるうちに、いつのまにか3人の暮らしも落ち着いてきて」
「覚えてる。なずなが作った和菓子を初めてもらったとき、まだ小3とかなのにすごいって思ったな。でも不思議と驚きはなくて。なずなって、小さいときから幼稚園の粘土遊びの時間に必ず和菓子作ってたんだよね。『これは「きんとん」、これは「練り切り」』とかって」
杏奈の言葉におばあちゃんが小さくうなずく。
「身内がいうのもなんだけどね、『好きこそ物の上手なれ』っていうのかな、ほら、こんなのまで作りだして」
そういいながら、おばあちゃんが新たに取り出したものを見て、わたしは悲鳴をあげる。
「ぎゃあーーーー!! おばあちゃん、ほんとやめてよっ」
「なんでよ。日記でもあるまいし。見られたくないならちゃんと片付けな!」
うっ。たしかに、2階の自分の部屋に片付けずに居間に放置してた私も悪いんだけどさぁ。
ちゃぶ台の上に広げられたのは、2冊のノート。
ピンク色のノートは、これまでに作った和菓子の写真を貼って、作り方とか食べた感想とか改善点が書いてある。
青いノートは、『いつかこんなの作りたいな~』という和菓子のイラストとかアイディアを書いているノート。
「これは、すごいな」
成瀬が、ノートをのぞきこむ。
「もう、読まなくていいからっ!」
成瀬の目が、和菓子のイラストからその下の小さな字に移るのがわかって、私はあわててノートをひったくる。
なんか、頭の中をのぞかれるみたいで恥ずかしい!!
「え、なんでだよ」
「べつに……あ、ほら、そんなことより、このお菓子食べてみてよ! うちのお父さんが作った『若鮎』。和菓子の『若鮎』って、食べたことある?」
私は、お皿の上の、茶色いお菓子を手にとる。
「『若鮎』っていうお菓子はね、薄く焼いたカステラ生地で求肥をぐるっと巻いて、で、顔とか尾びれの焼き印を押して、魚の鮎みたいにしたお菓子なの。あ、求肥っていうのは、いちご大福の皮みたいな、もちもちでおいしいヤツね」
「え、いちご大福のまわりって、あれお餅じゃないの?」
杏奈がびっくりした顔をする。
「うん、お餅って、もち米をついて作るでしょ? 求肥は、もち粉とか白玉粉に砂糖や水あめを入れて練って作るんだよ。で、お餅は甘くないし、すぐ固くなっちゃうんだけど、求肥は甘くて硬くならない」
「はーっ! 長らく和菓子マニアの親友やってるのに、知らなかったわー。でもほんと、なずなのお父さんの作るこの『若鮎』はおいしいよねぇ」
杏奈がそういってくれて、私はえっへんと胸を張りたくなる。
「でしょー。うちの『鮎』には、おじいちゃんの代からのこだわりがいーっぱいつまってるんだ。まず、このカステラ生地。すごくふかふかに仕上げてる。で、中身は求肥だけ。和菓子ってね、地域によっていろいろ違うところがあって、関東の和菓子屋さんの『若鮎』は、求肥とあんこを入れるお店が多いの。けど、うちの『若鮎』の中身は求肥だけ。ねとーっとした求肥の甘さをしっかり味わってもらえるようにね。ほんっとにおいしいから、さ、食べて食べて!」
わたしが勧めると、成瀬がパクッと鮎を口にいれる。
「あ。うまっ」
「でしょーーっ!!」
お世辞とかじゃなく、心から漏れて出てきたみたいな声で、私はパッと明るい気持ちになる。
和菓子って、ほんとおいしいくて、きれいで。
でも、ケーキとかチョコとか、ほかにもおいしいお菓子はいっぱいあるから、昔にくらべると、和菓子を食べる機会ってどんどん減ってるんだって。
だから私は、このおいしさをもっともっとみんなに知ってもらえたらいいな、って、ずっと思ってて。
こうやって、だれかがおいしいって食べてくれるのが一番うれしい。
いつか、私もそんな和菓子を作れる職人になれたら、って思ってるんだ。
「よかったよかった。成瀬君、このおかきも食べて。お茶のおかわりいれてくるね」
「あ、私、トイレ借りまーす!」
そういって、おばあちゃんと杏奈が立ち上がる。
私は、鮎を食べおえた成瀬に、次のお菓子をすすめる。
「こっちは、1年中お店に並んでる定番商品の『カピバラまんじゅう』。私が小さいときにカピバラにハマって、私のお誕生日会用にでお父さんが作ってくれたんだけど、友達もみんな喜んで、それでお店でも売るようになったんだ。中にはお父さん自慢の黄身餡が入っててそれがすごくおいしくて……って、え!?」
ちゃぶ台の上の和菓子たちから視線をあげて、ぎょっとする。
成瀬の目がじーっと私を見てる!?
「ちょっ、なにっ。こっち見て、こっち!!」
必死でカピバラまんじゅうをつきつけると、成瀬の口元がニヤリとゆがむ。
「やっと、2人きりになれたな」
「えっ」
私、思わずお尻を浮かせて成瀬からちょっとでも離れようとする。
と、成瀬がパッと私の右手をつかむ。
「ぎゃっ。なにすんの!」
あわてて振りはらおうとするけど、成瀬は細身の身体からは意外なほど力強く私の手を掴んで開く。
「ここ、豆ができてる」
そういって、成瀬がそっと私の手のひらをなでる。
「なずなの手、女子にしたら固くて力強いよな。調査会社の報告書で、『店の手伝いをしてる』って見てから、ずっと気になってたんだ。もしかして、お母さんが亡くなって家のことぜんぶやって、店の手伝いもして、苦労してるんじゃないか、って」
優しい声。
「けど、おばあちゃんの話を聞いて安心した。この豆は、なずなが自分の意志で和菓子作ってて、それでできた豆ってことだよな?」
そんな心配してくれてたんだ。
優しい声。
ずるい。
「……そうだよ。私、ちゃんと幸せにやってるんだから。調査会社の人にもちゃんといっといて!」
そういうと、成瀬が笑ってうなずく。
「よくわかった。で、もうひとつ、今日一日いっしょにいてわかったことがある」
「なに?」
「なずなってさ、恋愛のことに関したら、小学校の低学年か、幼稚園児くらいだよな。」
「はい!?」
「オレ、1日で惚れさせてみせるみたいなこといったけど。で、ほんとうはすぐに付きあってデートして、今年の夏はハワイかな、くらいのスピード感で話を進めたかったんだけど。それはもうあきらめるわ。なずなのペースにあわせるから。じっくり考えて。オレのこと」
「う。うーん……」
そんなこといわれても。
おっしゃる通り、恋愛初心者の私には、なんて答えたらいいのかわからないよ~~~っ。
杏奈、早く戻ってきて!
強くそう願ったそのとき、ガラリと居間の入り口の引き戸が開いた。
「あ、お父さん」
小柄なおばあちゃんから生まれてきたとは思えないくらい、クマみたいに大きいお父さん。
仕事中の今は、真っ白の調理服姿に調理帽をかぶっているから、まるで白熊みたい。
顔は四角くて、厳しそうで「ザ・職人」って感じ。
性格も自分に厳しくてちょっと寡黙な感じで、こういうの、職人気質っていうのかなーと思う。
けど、私にはすごくやさしくて、笑うと目がなくなる。
そんなお父さんが、今、細い目を見開いて、こっちを見てる。
成瀬の手の上に私の手がのっているとこ。
ありゃー。これは、まずい。
「なずな……、なにしてるんだ?」
「あっ」
成瀬が、手をひっこめて体をお父さんのほうに向ける。
「お父さん、この子は成瀬君。最近うちのクラスに転入してきて、それで」
「はじめまして。成瀬亘です」
にこり、とさわやかに成瀬が挨拶しても、お父さんは微動だにしない。
「お父さん……?」
ただならぬ様子のお父さんと、さわやか好青年モードの成瀬。
成瀬は、立ち上がり、お父さんに向かって名刺を差しだす。
「ボクはこういう者です。さっそくですが……」
成瀬はお父さんの目をまっすぐに見る。
「ボクとなずなさんは、結婚の約束をしておりまして……」
は!? それいう? 今? この状況で? 冗談? 本気? ほんとありえない!!!
ブチッ。
あ、お父さん切れた。
「てめぇ、出てけーーーーーっっ!」
その日の夜。
(お水、お水……)
成瀬の「結婚の約束をしておりまして……」事件のあと、我が家はもう大変だった。
いちおう、成瀬とはただのクラスメイトだって説明はしたけど、お父さんはすっとムスーッと怒って、私と目を合わせてくれない感じで。
おばあちゃんは、「なずなが男の子と仲良くしてるのが気に食わないだけ。ただのやきもちだからほっとけ! 私はワタル君いいと思う」なーんていって、ケラケラ笑って、よけいにお父さんを不機嫌にさせるし。
んもー、ほんとサイアクっ。
そう思いながら眠りについたら、変な夢まで見ちゃって、で、今。
のどが渇いて、2階の自分の部屋から階段を降りて台所に向かおうとしているところ。
(あれ?)
1階についたところで、私は足を止める。
時計は見なかったけど、もう真夜中だと思う。
それなのに、居間の電気がついていて、話声が聞こえてくる。
(こんな時間まで、どうしたんだろう)
そーっと廊下を歩き、居間に近づくと。
おばあちゃんの声がはっきりと耳に入ってきた。
「どうだった? いいのは見つかったかい?」
「いや、ダメだな。どうしても味が落ちる。やっぱり小麦粉は変えられない」
お父さんの、沈んだ声。
「そうかい」
パチパチパチ、と、おばあちゃんがそろばんをはじく音が響く。
「駅前のパン屋、いつの間にか店を畳んだんだな」
「あぁ、そうだってね」
「次は、ウチかもしれない」
「なにいってんだ。弱気になるんじゃないよ。なんとかこの店守ってやってよ。じゃないと、夢に向かってがんばってるなずながかわいそうじゃないか」
「いや、それはわかってる」
「なら、がんばりな」
障子の向こうで誰かが立ちあがる気配がして、あわてて自分の部屋に引きかえす。
おばあちゃんが見に来るかもしれないから、お布団の中に入って、目を閉じる。
心臓の音がドクンドクンと早くなる。
うちの店、なくなるかもしれないの?
そんなこと、考えもしなかった。
寝ようとしてもお父さんとおばあちゃんの会話が頭から離れなくて。
結局、やっと寝られたのは、うっすら外が明るくなったころだった。

