あの日の第二ボタン

気が付けば一学期最後の木曜日になっていた。
外に立っているだけで汗が吹き出るような陽気だった。
二人は話をしたいのに緊張で口が開かず、ただお互いに見惚れるだけだった。
自分も同じように見惚れられているとは知らずに。

「サボらずにやってっかぁ?」

柴橋が来た。
どんなに暑くても絶対に長袖を着ていたのに、今日は珍しく半袖を着ている。

「いやぁ、ほんっとあっちぃなぁ、今日は。」

偽物のように真っ白な歯を反射させながら言った。

「おれがガキの時は、夏が好きだったんだけどな。歳をとると人って変わっちまうみたいだな。」

「先生って、どんな子供だったんですか?」

優人が柴橋に尋ねた。
柴橋は苦笑いしながら答えた。

「勉強が全っ然できなかったなぁ。宮田とは違って。」

優人は首を振って答えた。

「僕だって小学生の時は勉強なんて全くできなかったです。」

柴橋はまるで信じられないと言わんばかりに「おぉ、そうか?」とリアクションをとった。
優人は続ける。

「小学二年生の時、かけ算九九の暗唱テストがあったんです。でも、八の段が全く覚えられなくて。テストに合格したのはクラスで一番最後でした……運動だって苦手どころじゃない。自転車の補助輪が取れたのは小学校に入ってからだった。心だって弱くて……幼稚園のお泊まり保育で、母親が恋しくなって一晩中泣きじゃくったこともありました……」

自身の過去を語る優人の暗い表情を見た悠依は、自分と同じように弱点があり、それを乗り越えて今の優人があるのだと知って、優人を身近に感じた。

「こんな頼りない人間なんすよ、自分なんて。」

優人は自虐気味に苦笑いをする。

「宮田先輩って、今まで完璧な人だと思ってました。なんでも難なくこなすスーパー生徒って感じ?でも、私と同じ人間なんだって知れて嬉しいです。私だって、親元を離れたくないって理由で保育園には行きたがらなかったし、自転車は今だって上手に乗れない。かけ算九九は覚えるのが誰よりも遅かった。何もかもが他の子より遅くって。一人で焦ってました。努力してもみんなに追いつけない。だから、私なんかずっと底辺を張って生きていくしかないんだって思ってました……」

悠依は我に返る。
柴橋と優人の視線が悠依に向けられている。
今まで優人の前でこんなに喋ったことがないのに、急に自分の暗い過去を喋り倒してしまった自分を恥じらう。

「すみません……私なんて、宮田先輩とは全然違う、恥ずかしい人間です……」

「そんなことない!君は強い人だ。優しさもある。」

今までに聞いたことがない強い口調で優人が叫んでいた。

二人は誰にも話したことがない失敗談を語り合った。
初めて打ち解けた瞬間だった。
気づいた頃には柴橋の姿はもうどこにもなかった。


夏休みに入った。
庭では蝉が大きな音を立てて鳴き、悠依は気が遠くなりそうだった。

騒音に耐えかねてテレビを付けると高校野球の中継が行われていた。
強い陽射しと歓声を浴びながらプレーする野球部。それをアルプススタンドから応援する吹奏楽部。

悠依は、長川高校に行ったら、優人先輩がバッターボックスに立って、私はアルプススタンドで応援できるのかと考えた。
夢ができた。
長川高校に行きたいという思いがどんどん強くなっていった。


「そんなんじゃ最後の試合勝てねぇぞ!」

監督の怒号が轟く。

「はいっ!」

優人は拳を握る。
三年生引退を控えた野球部の練習は緊張感が漂っていた。
(甲子園に行くためにはこれ以上の努力が必要なんだ……こんなとこで負けてたまるか。)
優人は自分を奮い立たせる。


カキーン

ボールを打つ音が校庭に鳴り響く。
暑さで意識が遠のいていく。