第五章 愛。

 「會野くんの病気……もっと知らなきゃ。」
 ページをめぐる手が止まらない。専門的な言葉に苦戦しながらも、必死に読み進めた。彼のために、何かできることがあるかもしれない。いや、何かできるようにならなきゃーー。
 気づけば夜が明け始めていた。それでも、私の手はまだ本を離せなかった。
 本を読むのが嫌いな私が、自ら本を開くなんて。生まれてこのかた、一度も本を買ったことはない。学校の図書室だって、片手で数えるほどしか足を踏み入れたことがなかった。
 それなのにーー気づけば、目の前には何十冊もの本が積み上がり、まるで壁のようになっていた。
 「え、こんな短時間でこんなに読んだの? この私が?」
 自分でも信じられないほど、夢中でページをめくっていた。難しい言葉に何度もつまずいたけれど、それでも必死に読み漁った。そのおかげで、ようやく彼の病気について少しだけ理解できた。
 「薬と手術以外で助かる方法は……心臓移植?」
 ふむふむ。なんだか難しいことばかり書いてあったな。とても一度じゃ頭に入らない。
 「放課後、また調べてみよう。」
 そう決めてからというもの、私は学校帰りや彼とわかれた後、母がいない間にこっそりブックカフェへ通い続けた。
 だけどーー時間というものは、残酷だ。私が本を読んでいる間も、彼の時間は確実に進んでいる。
 それに、ここ最近、會野の様子が少しおかしい気がする。
 例えば、一昨日のこと。
 「私、いちごクリームにする!」
 「かえで、本当それ好きだね。」
 「だって、美味しいんだもん! 會野は?」
 「俺は……今日はいいかな。」
 「え? 食べないの?」
 「お昼食べすぎちゃって。」
 「そっか。」
 彼はそう言ったけれど、私はちゃんと覚えている。お昼は一緒に食べた。でも、彼が食べた量はいつもと変わらなかった。むしろ、少し少なかった気がする。
 それに、クレープを食べない彼なんて珍しい。いつもなら、「かえでのもーらいっ!」って言って、あげてもいないのに生クリームやイチゴを取っていくのにーー。
 そして、それだけじゃない。
 最近の彼は「ちょっとトイレ行ってくる」と席を立つことがやけに増えた。授業中に胸を押さえているのを何度か見かけたし、席をすることも増えた。
 ーー隠してる。
 そう確信せずにはいられなかった。
 いつも私には「俺を頼れ」って口を酸っぱくして言うくせに、肝心なときに何も言ってくれないなんて。
 私だって、會野を助けたい。少しでも役に立ちたい。
 「ここ数日間、必死になって調べたんだ。明日、学校で彼が隠していることを聞き出してーー次は私が彼を助ける番だ!」
 強くそう決心する。
 ……ただ、ブックカフェに通い詰めたせいでひどい寝不足だった。明日に備えようと、いつもより早めにベッドに横になる。ゆっくりと瞼が重くなり、そのまま深い眠りへと落ちていった。

 「會野くん! 會野くん! ねぇ、どこにいるの! ねぇってば!」

 暗闇の中で、必死に誰かを探している。でも、どれだけ呼んでも、どれだけ走っても、その姿はどこにもない。
 バッ!
 「はぁ、はぁ……」
 勢いよく跳ね起きた。胸がドクンドクンと激しく脈打っている。
 「……夢?」
 額にはじっとりと冷たい汗が滲んでいた。
 ーー何、今の夢……?
 知らない誰かが突然、私の目の前からいなくなって。でも、それが誰だったのか、どんな状況だったのかーーまるで霧の中に消えたみたいに、何も思い出せない。
 「……まぁ、ただの夢だし、気にすることないよね!」
 嫌な感じはしたけれど、それは所詮、ただの夢。深く考える必要なんてない。
 それより、今日は大事な使命がある。彼がまだ私に話していない「病気のこと」を聞き出さなきゃいけない。
 気持ちを切り替えて、ベッドから起き上がる。制服を袖に通し、鏡の前でリボンを整える。スクールバックを肩にかけ、大きく息を吸った。
 「よし、行くか!」
 勢いよく家を飛び出すと、澄んだ青空が広がっていた。それに、昨夜は久しぶりにしっかり眠れたからか、今日はなんだか気分がいい。思わず鼻歌を口ずさみたくなるくらいに。
 学校の門をくぐると、校長先生が立っていた。
 「おはようございます。」
 軽く会釈をして、そのまま教室へ向かう。
 ガヤガヤガヤガヤ……
 廊下まで響く、クラスメイトたちの賑やかな声。
 「相変わらず、うるさいなぁ。」
 私のクラスはいつも朝から騒がしい。でもーー思えば、私に対するいじめが止まったのは、會野と頻繁に話し始めてからだった。それ以来、誰も私にちょっかいをかけてこなくなった。……というか、話しかけてこなくなっただけだけど。
 まあ、それはどうでもいい。今気になるのはーー
 「……あれ?」
 會野の席が、空っぽだった。
 いつもなら、とっくに来て、男友達とじゃれあっているはずなのに。
 ……なんで?
 「さては寝坊したな! いつも私に寝坊するなって言ってるくせに、まったく……」
 最初は軽く考えていた。しかし、朝のチャイムが鳴り、授業が始まっても彼は来ない。私の学校では出席確認がないためら彼が遅刻なのか欠席なのかすら分からない。
 「まだ来ないってことは、お休みなのかな?」
 何も言わずに休むなんて、これまで一度もなかった。そんなはずない、そう思いながらも、じわじわと不安が膨らんでいく。
 気づけば時計の針は十二時を回り、四限目が始まっていた。登校中で何かあったんじゃないか。そんな不安が胸の奥からどんどん広がっていく。
 気持ちを抑えきれなくなった私は、ついに授業中にスマホを手に取った。教科書で隠しながら、彼とのトーク画面を開く。
 そこには
 「今日はいきなりあんなこと聞いてごめん」
 「もし、なんかあったら、ここに連絡しろよ! また明日な」
 その下には、ポツンと並ぶ電話の履歴マーク。
 「そうか……あの時以来、私たちメッセージしてなかったんだ」
 あんなに毎日一緒にいたのに、メッセージ一つ送っていなかったことに気づく。
 「ここから私たち、話すようになったんだよね。懐かしいな……」
 まだそれほど時間がたったわけでもないのに、ずっと昔のことのように感じる。
 「って、いやいや! 思い出に浸ってる場合じゃない! 早く連絡しないと!」
 気づけば時間がどんどん過ぎていた。私は慌ててスマホを握り直し、先生にバレないように必死にメッセージを打つ。
 「今日学校休んだけど、大丈夫? 無理しないでね。」
 「あとね、本当は今日話したいことがあったんだけど……また明日話すね! これ見たら連絡ちょうだい!」
 送信ボタンを押すと、少しだけ息をつく。
 「そういえば、初めて彼に電話をかけたとき、想像以上に緊張して震えてたっけ……」
 それに比べれば、今こうして普通にメッセージを送れていることに、ほんの少しだけ成長を感じた。
 でもーー彼からの返信は、一度も来なかった。
 気つけば、メッセージを送ってから一週間が経過していた。
 既読もつかない。学校にも、一度も来ていない。
 他のクラスメイトに聞いても、誰も理由を知らない。先生に尋ねても、「それはプライベートのことですので、本人から口止めされています。」その一点張りで、まったく教えてくれなかった。
 ーー唯一、彼の病気を知っているのは私だけ。
 胸の奥がざわつく。何か、良くないことが起きている。
 そう確信した私は、学校が終わるとすぐに、片っ端から彼が通っていそうな病院に電話をかけ始めた。
 「はい、そうですか。 ありがとうございます。」
 電話を切るたび、肩が重くなる。
 「はぁ……もう十二件目……」
 スマホを握りしめたまま、夜の冷たい空気を大きく吸い込んだ。気がつけば、時計の針は二十二を回っていた。
 (さすがに、もう夜遅いよね……これ以上は迷惑かも)
 そう思いながらも、どうしても諦められなかった。
 (でも、あと一件だけ……)
 ここにかけてダメなら、今日はもうやめよう。そう決めて、周辺で一番大きな病院の番号を押した。
 彼への強い思いをこめて、震える手で受話器を耳に当てる。
 ーープルルルル。
 無機質なベルの音が、静かな夜に響く。鼓動がどんどん速くなり、体がこわばる、
 視界の端で、緑色のギザギザした光がチラつく。手のひらには、じわじわと汗が滲み出していた。
 「はい、きさきが丘病院です。」
 反射的に息を呑む。
 「夜分遅くにすみません……そちらに會野裕という高校生はいますか?」
 「少々お待ちください。確認してまいります。」
 カチッ。
 保留音に切り替わる。
 この数秒間ほど、苦痛な時間はなかった。心臓が暴れるように脈打つ。
 鼓動が大きすぎて、今にも喉から飛び出してしまいそうだった。
 「お待たせしました。」
 「どうでしたか?」
 「高校ニ年生の會野裕くんですよね?」
 「はい、そうです!」
 「でしたら、こちらの病院にいらっしゃいます。」
 「本当ですか!?」
 「はい、ただいま入院中です。」
 「実は私、會野くんのカノ……いや、同級生なんですが、今から行っても大丈夫でしょうか?」
 「こちらの病院は二十四時間営業ですので、大丈夫ですよ。」
 「分かりました! ありがとうございます!」
 「では、お待ちし……」
 ブチッ!
 最後まで聞く余裕はなかった。電話を切ると、携帯と財布をポケットに突っ込んで、何も考えずに家を飛び出した。どれだけの時間が経ったのか、もうわからない。十三件目の病院で、ようやく彼がいる病院を見つけた。時計の秒針が刻む音に合わせるように、私は足を動かし続けた。決して短い距離ではない。けれど、今は一秒でも早く彼のところに行きたくて、全てを無視して走り続けた。自転車なんて使おうなんて思わない。疲れが全身に広がってきても、足が限界を迎えたって、止まるわけにはいかない。息が上がって、頭がくらくらしているのに、私はただひたすらに走り続けた。こんなに走ったのは、人生で初めてだった。
 「あの角を曲がれば病室だ!」
 夜遅い病院に入るのは初めてだった。エントランスに足を踏み入れると、一階の電気はほとんど消えていて、受付だけがぽつんと灯っている。その薄暗い光景が、どこか不気味で背筋が寒くなった。
 「あの、先ほど電話したかえでです。會野くんの部屋は……?」
 「お客様、大丈夫ですか?」
 自転車も使わずにひたすら走り続けたせいで、息が上がり、足はまるで生まれたばかりの子鹿のようにガクガクだ。
 「私は平気ですので、早く彼の部屋を!」
 受付のお姉さんが心配するほど、私の状態がひどいことは自分でも分かっていた。それでも、彼に会いたい気持ちだけが先行して、私は体力の限界を感じながらも動き続けた。
 「あ、えーっと、會野裕さんは七階の七〇ニ号室です。」
 「ありがとうございます!」
 小さな声でお礼を言い、私は急いでエレベーターに向かった。七階。さすが、この地域で一番大きな病院だ。
 「お願い、早く! 早く!」
 エレベーターのボタンを何度も何度も押す。大きな病院だから、十五階まであって、一階に降りてくるまで思っていた以上に時間がかかる。その間、一秒一秒が恐ろしいほど長く感じた。体力の限界が近づいているのに、階段なわて使おうなんて考えられない。
 「でも、會野に早く会いたい。」
 気づけば、私はその場を離れ、足が勝手に動いていた。階段を一段飛ばしで、七階まで駆け上がる。
 ガラガラ!
 勢いよく病室の扉を開けた。
 「會野!」
 そこには、無地の病院服を着てベッドに座っている會野くんがいた。腕には痛々しい点滴が何本もつながり、数週間ぶりに見る彼の姿に、私は思わず息を呑んだ。
 「かえで! どうしてここに……」
 彼の、いつもと変わらない優しい声が頭の中に響く。
 やっと会えた。目の前に彼がいる。その瞬間、これまで感じていた不安や、もう二度と会えないんじゃないかと言う恐怖が、次第に「決心」へと変わっていった。
 自然と涙がポロポロ頬を伝って落ちていく。
 「何時間もいろんな病院に電話して、やっと見つけたんだから! どうして連絡もせずに黙っていたの? 心配したんだから!」
 「ごめん、親に携帯取り上げられてて、それに、きっとかえでなら見つけてくれるって信じてたから!」
 ヒョイっと舌を出して笑う彼を見て、私は思わず肩を震わせた。
 「こんな時に冗談言わないでよ……」
  私の胸は今にも張り裂けそうに苦しくて、でも、目の前で変わらず冗談を言っている彼を見て、心の中で少しだけホッとする自分がいた。彼がいつものように笑って、その場を明るくしてくれるから。
 「それにしても、汗びっしょりじゃん! これで拭きな!」
 近くにあったハンカチを取って、彼が手招きする。私は彼のベッドの隣に腰を下ろし、汗を拭くために手を差し伸べた。
 「本当にすごい汗だな。まさか、かえで走ってきたの?」
 「うん、だって心配だったから。」
 彼の匂いがするハンカチを手に、柔らかく温かい手で額から出る汗を優しく拭いてくれる。
 夜の薄暗い病室。二人きりの静かな空間に、時計の秒針の音だけが響く。いつもひとりで聞いていた秒針の音とは違って、今、ここで聞くその音はまるで私の心臓の鼓動のように感じられた。
 「ねえ、あのさ。」
 「そうだ、今度どっか行こうよ!」
 私が病気のことを聞こうと口を開いた瞬間、彼の言葉で遮られた。何本もの点滴が彼の腕をつないでいるのを目にして、無理にその話をする気にはなれなかった。
 「体も少しずつ良くなってきてるし!」
 「うん、もし會野が元気なら行きたい! でも、どこ行く?」
 「うーん……」
 彼はしばらく悩んでから、ふと思いついたように言った。
 「あ、海とか?」
 「おおー、なかなかいいセンスじゃん!」
 「んだよ、それー! こうしてやる!」
 「もう、髪の毛がボサボサになっちゃうー!」
 しばらくの間、子供のようにふざけ合い、静かな病室に笑い声が響いた。
 「でも、會野くん、ありがとう。」
 「え、急にどうしたの!」
 私の一言で、病室が一瞬静まり返る。
 「だって、どん底の人生から救ってくれたのは會野でしょ?」
 「別に、俺は……」
 「シッ! 最後まで聞いて。」
 私は彼の口元に人差し指を当て、続けた。
 「それに、今こんなに楽しく笑えるのも、自分のことを受け入れて好きになれたのも、全部會野のおかげなの。きっと、會野が隣にいなかったら私は生きていけなかった。だから、いつもそばにいてくれてありがとう。」
 「どうしたんだよ、かえでらしくない。」
 彼は予想外の言葉に目をキョロキョロと泳がせ、少し動揺しているようだった。でも、体は正直で、耳が真っ赤になり顔を背け、私と目を合わせてくれない。
 「お、俺の方こそ、ありがとうな! かえでといるときが一番楽しかったし、仲良くなれて本当に嬉しかった。」
 そう言いながら、彼は照れくさそうに微笑んだ。
 でも、その時、彼の言葉に違和感を覚えた。
 「ねえ、なんで楽しかったとか、過去形なの?」
 「え?」
 「なんか、もう……会えなくなっちゃうみたいな言い方だったけど。」
 彼が何度も過去形で話すたびに、私は胸がチクっと痛んで疑問を抱いていた。
 「俺、そんな言い方した?」
 「したよ!」
 「まぁ、心配すんな。」
 彼は伸子が子供をあやすように、優しく私の手の甲を撫でた。でも、その優しさが逆に私を切なくさせ、言葉が出なくて、しんみりとした空気が広がった。
 「ねぇ、會野は怖くないの?」
 「え?」
 私を撫でる手がぴたっと止まる。
 「あ、ごめんね、こんなこと聞いて……」
 「會野はいつも元気で、辛い顔なんて見たことなかったから。」
 その後、しばらくの沈黙が続いた。
 病室の薄暗さが、なんだか静寂を引き立てて、風に揺れる葉っぱの音や虫たちの鳴き声がやけに大きく感じる。
 しばらくして、彼がようやく口を開いた。
 「怖い……」
 「え?」
 「すげぇ、怖い……」
 その言葉に、私は胸がギュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
 今まだ元気そうだった彼の口から出た震えた声。
 その姿が私の心に重く響いて思わず「ごめん、変なこと聞いて」と呟いた。
 その時、ふと彼の腕が私を包み込む温かさを感じた。白くて、美しい彼の腕が優しく私を後ろから抱きしめてくれていた。
 「ちょっ、會野……くん?」
 「あ、くん付けした。」
 彼がクスクス笑いながら、私の耳元に優しく息を吹きかける。
 「俺、本当はすごく怖いんだ。死ぬのも、かえでと会えなくなるのも。」
 私を包む彼の手が、微かに震えているのがわかった。その震えが胸にじんわりと響いて、私は彼の手を強く握り返した。
 その瞬間、私の気持ちは一気に溢れ出して、勢いよく振り返り彼を強く抱きしめ返した。二人の身体の間には、言葉にできないほどの深い想いが流れていた。強く抱きしめた手が、彼の頬にふれて、思わずそのまま顔を包み込む。彼の温もりが、私をもっと強く引き寄せた。
 「次は會野が私を頼る番だよ!」
 「え、俺が?」
 「うん! いつも會野は私に頼ろうとしないのに、自分は頼れって言う!」
 「それは……」
 「少しくらい私も役に立たせて。」

 「かえで……」

 私は彼の目を強い眼差しで見つめた。その迫力に負けたように、彼がぽつりと言った。
 「わかった! 今度は俺が頼る番なのかもな。」
 「もぅー、素直じゃないな!」
 その瞬間、彼の瞳から、まるでガラス細工のように透明で美しい涙がポロポロとこぼれ落ちていた。彼が涙を流すのを見たのは、これが初めてだった。
 「かえで、よく聞くんだ。」
 鼻を勢いよくすする彼が、私の顔をじっと見つめながら言った。
 「もし、俺がいなくなっても、かえでは一人じゃない! みんな、かえでの性格を知らないだけで、知ったら絶対好きになる。俺が保証する。だから……っ……だから、クラスの誰でもいいから話しかけてみるんだぞ! わかったな!」
 涙ぐみながら、唇を噛みしめて言う彼。その姿が私の心をズキンと痛ませた。
 「でも、私はもともと一人だったんだよ? 會野以外は興味ない!」
 彼は目を赤くし、涙が今にも溢れそうになっていたけれど、それをグッと堪えて、私の肩に手を置いた。その温もりを感じた瞬間、私もこらえていた涙が溢れそうになった。
 「ねぇ、また私の心配してるの?」
 「当たり前だろ! お前が一人だと、安心できないんだ。」
 彼の手が私の肩を掴む力が、だんだんと強くなっていった。その強さに、私の心がもっと温かくなった。
 「分かった。分かったから、もう自分の心配して? お願い……」
 お互い、今まで以上に熱い気持ちを込めて語り合い、次の休みの日には海に行こうと約束した。病室を出て、私は受付のお姉さんに彼の病気について尋ねた。
 すると、そこで告げられたのは、耳を疑うような衝撃的な事実だった。
 「會野さんは今年中に心臓移植をしなければ完治は難しいでしょう。でも、未だにドナーが見つかっておらず、必死に探している最中なんです。」
 その言葉を聞いた瞬間、視界が一瞬で暗くなり、あまりの衝撃に息が止まりそうになった。それでも、考える間もなく、私の口が先に動いた。
 「あの、それって私でもできるんですか?」
 「それは、どういう……」
 自分でも何を言っているのか分からなかった。ただ、一心に彼を救いたいという気持ちが私の中で強く燃えていた。
 「私が彼のドナーになります!」
 そのとき、後悔の気持ちは一切なかった。受付のお姉さんは驚いて必死に止めようとしたけれど、私は諦めなかった。担当の医者としっかり話し合い、私の携帯番号を伝えることになり、その日はそれで終わった。
 一睡もせず、次の日、私は学校へ向かった。オールしたのは人生で初めてだったけれど、不思議と眠気は一切感じなかった。それよりも、彼のことが心配で心配でたまらなかった。もし私がドナーになったら、次の海への旅行が最後になってしまうかもしれない。だけど、彼を助けられるなら、死ぬことすら怖くなかった。だって、これが私が彼にできる最初で、最後の恩返しだから。
 いつもと変わらず賑やかな教室に足を踏み入れると、朝礼が始まった。
 「今日は、皆さんに伝えなければならないことがあります。」
 先生が教室に入ってきて、いつもと違う厳しい表情で太い声で言った。その声に反応して、生徒たちは静まり返った。
 「以前から欠席している會野くんについてですが、実は病気で……」
 その瞬間、頭が真っ白になり、先生の言葉が耳に入ってこなかった。何を言っているのか全く理解ができなかった。
 (ねぇ、先生、なんて言ったの?)
 (だから、今なんて……)
 先生の言葉は、まるで雑音のように聞こえてきた。ただ、教室内では泣いている生徒たちの声だけがはっきりと響いていた。
 「え、私、會野と昨日約束したよね、海に行くって。約束……したよね……それに、まだ伝えたいことが……」
 私はただただ、泣き崩れる生徒たちを呆然と見つめるしかなかった。
 その後、病院に電話をかけ、ドナーになることを約束したのに、どうして実行しなかったのか尋ねた。医者はしばらく沈黙してから、重い口調で答えた。
 「私たちもお約束を守ろうとしました。しかし、できない理由があります。今すぐこちらにお越しいただけますか?」
 理由が気になりながらも、私は「分かりました。すぐ向かいます」と言って、急いで病院へ向かった。病院の受付に到着すると、スタッフが手渡してきたのは、一枚の手紙と一冊の日記だった。

 私は日記を後回しにして、手紙を開いた。

 ⸻

 かえでへ

 まず、ひとつ言わせてくれ! ドナーになるなんて、絶対に俺が許すわけないだろ! お前が何しようとするか、俺は全部分かってる。でも、頼むから「自分のせいで」なんて思うなよ。かえではそういうところがあるからな。
 それに……ごめんな。ずっと黙ってて。でも、言いたくても言えなかったんだ。だって、言ったら絶対俺の方が泣いちゃうからさ。
 もし、もっと早くかえでに気持ちを伝えられていたら、もっと長く一緒にいられたのかなって、でも……まだ、かえでの気持ち、ちゃんと聞けてなかったな。
 かえでが少しでも楽しいって思ってくれていたなら、俺はそれだけで満足だよ。きっと、かえでは勘違いしてるかもしれないけど、実は俺が一番助けられていたんだ。いつもそばにいてくれて、病院にも来てくれて、本当に嬉しかった。帰った後、ちょっと泣いたのは内緒な!
 かえでは本当に強い。俺なんかよりずっと。だから、学校でもちゃんと話しかけてくれよ。もしお前が一人だったら、俺が怒りに行くからな! 俺はいつもそばにいるから。
 最初で最後に好きになったのがかえでで、本当に良かった。心からありがとう。愛してる。

 ⸻

 手紙を読み終えた瞬間、涙がこぼれた。最初は一滴だったのに、すぐに止められなくなり、涙が滝のように流れ落ちていった。拭いても拭いても、涙は止まらなかった。
 手紙と日記を胸に強く抱きしめながら、ぽろりとつぶやいた。
 「私も愛してる……愛してるよ……これが『好き』って気持ちなんだね……ありがとう、會野。」
 私は、初めて好きになった人に、自分の気持ちを伝えることなく、こうして終わってしまった。
 家に帰ると、静かな部屋で一人、ゆっくりと彼の日記を開きながら、ひとつひとつ丁寧にその内容を読み始めた。ページをめくるたびに、彼の思いが少しずつ私の胸に響いていく。そんな中、最後のページに差し掛かると、今までとは少し違う一文が書かれていた。
 「俺が一番最初に好きになった人がかえででよかった!」
 その言葉を目にした瞬間、また涙がこぼれ落ちた。どんな言葉も彼の気持ちを完全には表せないけれど、それでもその一文が胸を突き刺さように響いた。
 そして、時が流れ、私はその思いを胸に抱きしめながら、勇気を振り絞る決意をした。あの時、隣の席でメガネをかけて本を読んでいる女の子に声をかけた。最初は緊張して言葉がうまく出なかったけれど、その子は優しく微笑み、私に話しかけてくれた。気づけば、私はひとりじゃなくなり、彼女と仲良くなることができた。そして、今では十年が経ち、私の大切な親友となっている。
 あの頃、私を厳しく叱っていた母は、今、警察に捕まり、刑務所にいる。でも、もしも昔の私だったら、母を許すことなんてできなかっただろう。きっと、恨んでいたかもしれない。けれど、今は違う。辛かった過去は決して消すことはできないけれど、それ以上に素晴らしいことを彼から学んだ。それは「愛」だった。相手を思うその気持ちが、目に見えないほどに輝いていることを、私は知った。それを理解できたことだけで、私はもう十分だと思った。
 彼が教えてくれた「愛」を胸に、私はこれからも歩んでいこう。そして、その愛が私を強く支えてくれることを、信じている。